原稿締切におわれる2月

毎年のことですが

2月は年度内の原稿締切が

どっさりあるため

所要以外の時間は

全て執筆や資料作成に

さかれてしまいます。

 

本当に出来るのだろうかと

毎年心配になりつつも

何とか瞬間最大出力的な踏ん張りで

乗り切ってきたので

本年も何とかやり切りたいと思います。

 

今月来月は

大切な行事も続きます。

 

2月17日は

秘仏をご開帳して法要を行う

「おこもり」があります。

 

令和4年おこもりのご案内

 

3月6日は

新本堂の上棟式があります。

 

そして春彼岸があります。

 

という感じで

ドドドッと行事が続きます。

 

原稿締切におわれる2月と

行事が立て込む3月。

 

ありがたく

精進させていただきます。

 

2年前の護摩法要

江戸期における

七崎観音(ならさきかんのん)の

歴史に触れながら

2020年の「おこもり」の

様子をお伝えする動画をアップしました。

 

「おこもり」とは

毎年旧暦1月17日に

秘仏の観音様をご開帳して

法要を行うという行事です。

 

本年のおこもりは

2月17日に行ないます。

令和4年おこもりのご案内

 

旧本堂では

護摩法要を行っていたのですが

仮本堂では護摩を修法できないので

形式を変えて

ご祈祷の法要を行ないます。

 

本年も感染対策を行った上

開催させていただきます。

 

年に一度の行事なので

ご都合のよろしい方は

ご一緒いただければ幸いです。

 

 

▼仮本堂での「おこもり法要」(2021)

正面側屋根の銅板もかなり葺かれてきました

本堂の正面側にも

着々と銅版が葺かれ

屋根が厳かになってきました。

 

工事の進捗状況を

お伝えすべく映像を用意したので

現在の様子をぜひご覧くださいませ。

 

令和4年3月6日には

上棟式を行ないます。

 

感染症への不安が

なかなか払拭されない昨今ですが

開催する予定です。

 

工事が無事に終わることへの願い

世の平安への願い

有縁の皆様の平穏への願いを

上棟式に託して

臨ませていただきたいと思います。

 

七崎観音の近現代

2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳日です。

 

この日は

午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と

通称されます。

令和4年おこもりのご案内

 

明治時代になり七崎観音は

行ったり来たりを繰り返した

ということは

これまでも触れてきましたが

そのことをいまに伝える

明治10年(1877)『伺』(うかがい)

という県令への文書があります。

 

以下に引用するのは

その翻刻です。

 

往来がわかる部分は

色を付しています。

 

赤は1回目

青は2回目

紫は3回目の遷座の記述です。

 

なお

原文のくずし字を

拙僧泰峻が翻刻したのですが

何文字か解読困難な箇所があり

文脈から字をあてていることを

あらかじめお断りしておきます。

 

 

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿

 

以上が『伺』の翻刻となります。

 

どのような

伺いがたてられているかというと

江戸期に梵鐘を奉納した方の

孫にあたる方が

奉納した梵鐘の返還を

強く求めていることに対する

対応について

当地の代表者方が

当時の県令に問うているわけです。

 

この文書中に

明治初期の当地における

神仏分離の対応を

読み取ることが出来ます。

 

これまでの慣習も尊重しつつ

新たな時代に対応しようと

努められている様子が

伝わってくるように思います。

 

昨日の投稿では

当山61世の長峻和尚について

少しばかり紹介いたしました。

 

名僧というべき長峻和尚は

住職在位中の約20年にわたり

普賢院を復興され

さらには兼務寺院興隆にも

ご尽力されました。

 

長峻和尚は研究者肌だったようで

晩年に到るまで時間があれば

ひとり研究に励まれていたそうです。

 

1901年(明治34)に

普賢院では興隆講という

講が発足しています。

 

興隆講については

以前にブログで触れているので

よろしければそちらも

ご参照下さい。

稀代の古刹 七崎観音⑩

 

興隆講は

七崎観音堂の再興事業とでも

いうべき取り組みです。

 

定期的に集まり

護摩祈祷を行ったり

法話を聞いたりなど

積極的な活動が

なされていたようです。

 

長峻和尚の祈祷や護摩には

多くの人が集まったそうです。

 

カリスマ的な住職だったと

いえるかと思います。

 

東北屈指の霊場である

山形県鶴岡の

湯殿山大日坊の住職を

最晩年は務めるわけですが

多忙が過ぎたこともあり

病魔におかされ

行年60でご遷化されました。

 

それからしばらくの間

当山は困難な時期となります。

 

62世晃雄和尚が住職になるのは

長峻和尚亡きあと

しばらくたってからとなるのですが

その晃雄和尚の晋山式は

同時に出征送別のひとときでもありました。

 

戦争期において

七崎観音へは

身内が出征した方が

多く参詣されるようになったそうです。

 

明治から昭和まで

話が飛んでしまった感がありますが

明治以後の激動期については

可能な限りの記述を試みたいと思います。

 

今回は

明治初期における神仏分離への対応を

今に伝える文書『伺』の紹介と

“巨星”長峻和尚とその後について

多少触れさせていただきました。

 

 

 

 

普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚

東北を代表する霊山である

山形県鶴岡の大日坊の住職を

八戸(当時は五戸)のお寺の住職が

兼任していたことを

ご存じの方は少ないと思います。

 

普賢院第61世にあたる

品田長峻(1877〜1936)は

俊秀な僧侶で

その手腕は内外に

高く評価されていた方で

三戸郡南部町の恵光院を兼務され

最晩年は大日坊の

第88世住職を務めた名僧です。

 

現住職である拙僧泰峻の僧名は

先代泰永の「泰」と

長峻和尚の「峻」の字を

いただいております。

 

長峻和尚は拙僧泰峻の

曽祖父にあたります。

 

江戸時代までは

当山住職は選抜された方が

就任されていたのですが

明治になると事情が大きく変わり

在地の者が住職として

お寺を守ったようです。

 

秀でた僧侶の赴任が途絶えたため

在地の方が住職になるために

取り急いで出家して僧侶となり

住職をつとめた方がいたり

同宗派寺院住職に

代務者を務めていただきながら

何とか体裁と整えていた時期も見られます。

 

実際に僧侶として

あるいは住職を務める者として

思うのですが

修行と修学の両輪を

必要最低限納め

さらに様々な法要や儀式や

慣習を経験しながら

道を深めていくには

長い年月が必要なので

突発的に出家して

住職を務めるというのは

相当大変だったと思います。

 

そのような状況で

この長峻和尚が

当山住職に抜擢され

当地に赴任されて以後

普賢院は大いに復興され

併せて七崎観音堂も

再興を遂げていくこととなります。

 

長峻和尚の葬儀にて

大導師により読まれた

歎徳文(たんどくもん)や

僧侶としての履歴書ほか

過去帳を手がかりに

関連する事柄を

時系列に並べると以下のようになります。

 

  • 明治10年(1877)10月4日生(出生地は新潟県刈羽郡/五男/俗名 弥平太)
  • 明治22年(1889)12月11日 千光院(大崎)住職・鬼山長慶師の室に入る(弟子となる)
  • 明治24年(1891)12月11日 檀林所円満寺において学頭(権田雷斧師に従い全科卒業)
  • 明治25年(1892)1月27日 得度(千光院において/戒師阿闍梨 文澄師)
  • 明治25年(1892)四度加行(2月12日[開白]〜11月21日[結願]/千光院において/履歴には「報恩院流憲深方二依り」と記載)
  • 明治26年(1893)4月21日 灌頂(新潟の善照寺において/長慶阿闍梨に従い入壇)
  • 明治26年(1893)7月10日 改名(戸籍名も長峻とする/この年月日に「安田正秀殿聞届」と履歴に記載あり)
  • 明治28年(1895)12月12日 度牒(真言宗長者 権大僧正 鼎龍暁師より拝受)
  • 明治29年(1896)一流伝授(7月10日[開白]〜20日[結願]/高善寺において/穂波快念阿闍梨による小島流伝授)
  • 時期詳細不明 新義真言宗中学林(長野県で3年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 正則英語学校(東京で5年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 管長猊下の命により北海道開教に従事(2ヶ所に寺院を新設/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 大正4年(1917)10月17日 『重要神誓文』(亡母の命日に、結婚にあたって自身の誓文をしたためている)
  • 大正5年(1916)7月20日 先妻せつ子逝去
  • 大正5年(1916)10月 普賢院61世住職就任
  • 大正7年(1918)8月8日 長女 道子誕生
  • 大正8年(1919)6月 恵光院(三戸郡南部町)住職兼任
  • 大正10年(1921)8月10日 長男 晃雄誕生
  • 大正12年(1923)6月5日 次男 高明誕生
  • 大正15年(1926)8月18日 次女 豐誕生
  • 昭和2年(1927)八太郎の蓮沼で「聖観音」と刻された石が発見される
  • 昭和4年(1929)旧8月17日に蓮沼に「北沼観音」のお社を建立
  • 昭和6年(1931)観音堂(内御堂)と仁王門を改築
  • 昭和6年(1931)子安地蔵堂建立
  • 昭和9年(1934)本堂と庫裏を修繕(当時、累年の凶作で経済的に大変な時代)
  • 昭和9年(1934)8月 弘法大師1100年御遠忌を厳修
  • 昭和10年(1935)5月 山形県湯殿山の大日坊88世住職兼任(大日坊での住職名は慈念海上人忍光上人)
  • 昭和11年(1936)3月3日(旧2月10日)ご遷化(行年60)
  • 昭和17年(1942)3月28日 晃雄和尚四度加行成満(阿闍梨 神林隆淨僧正/慈光山道場にて)
  • 昭和17年(1942)10月12日 晃雄和尚灌頂(東京の護国寺にて)
  • 昭和18年(1943)晃雄和尚の割切袈裟一領(年月と晃雄と墨書きあり)
  • 昭和19年(1944)晃雄和尚晋山・出征(2月28日頃出発、3月1日弘前野砲隊へ入隊)
  • 昭和19年(1944)6月5日 後妻ツネ逝去(行年61/明治17年(1884)9月15日生まれ/出身地は現在の岩手県沼宮内の柴田家/60世宥精師[大正5年(1916)5月24日 行年35でご遷化]の妻で、長峻師とは再婚)
  • 昭和19年(1944)6月15日 高明氏出征(前日に送別会が行われ、その時の写真が残っている)
  • 昭和20年(1945)4月8日 高明氏戦死(フィリピンルソン島マウテル州バキオ付近にて/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和20年(1945)7月30日 晃雄和尚戦死(フィリピンルソン島ダラカン州にて戦死/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和22年(1947)本堂屋根葺替の木札に当時の様子が記述され、その中に「晃雄住職の生死不明」とある。

 

正則英語学校で学んでいたため

英語には通じていたようで

亡くなった祖母の話ですと

通訳をお願いされたり

英語の教えを請われる程だったそうです。

 

長峻和尚は幼少の頃から

修行と修学に励まれていたことが分かります。

 

長峻和尚の

観音堂でのご祈祷には

大勢の方がご参列され

その法話に耳を傾けたそうです。

 

3つもの古刹の

再興に情熱をもって粉骨砕身した

長峻和尚ですが多忙が過ぎ

行年60でご遷化されています。

 

2022年である今から

100年さかのぼる1922年は

大正11年にあたり

長峻和尚は当時45歳にあたります。

 

その頃は当山住職に

就任されて6年という時です。

 

ここ最近は

七崎観音の近現代について

主にブログで取り上げておりますが

長峻和尚が書かれた表白などの文書に

それまでの状況であったり

観音堂の修繕の様子が

細やかに述べられているので

それらについて

改めて見ていきたいと思います。

 

さらに

長峻和尚ご遷化の後

当山は戦争の影響で

かなり困難な状況を迎えます。

 

戦争期については

何かしらの形で

書きとどめておくべきものと思いますので

祖母から生前に聞いた話のメモを

手がかりにその当時の様子について

紹介したいと思います。

 

▼長峻和尚

 

▼湯殿山大日坊での一枚

 

▼愛娘たちとの一枚

 

 

 

 

 

2体の七崎観音についてショートムービーを作りました

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)は

明治時代を迎えるまでは

現在の七崎神社の地にあった

七崎観音堂に祀られていました。

 

神仏分離政策への対応のため

七崎観音堂は廃止され

堂内の諸尊・諸法具は

別当寺である普賢院へ移されました。

 

七崎観音堂は

「稀代の古刹」と称されるほど

多くの方に崇敬され

代々の藩主にも庇護されてきましたが

明治に廃止され

突貫工事的に普賢院本堂内に用意された

観音堂に遷座されることになります。

 

普賢院本堂の一隅に用意された

観音堂のスペースは

とても簡素なもので

盛時の面影は

全くなかったそうです。

 

しかし

明治以後の住職方のご尽力により

七崎観音堂は

普賢院本堂の内御堂(うちみどう)として

再興されていくことになります。

 

明治、大正、昭和、平成を通じ

観音堂は素晴らしい空間に

整備されてまいります。

 

歴代住職方が繋がれてきた

尊い「思い」を令和においても

しっかりと引き継ぎたいと思います。

 

そのようなことに触れながら

七崎観音についての動画を

用意したので

ご覧いただけると幸いです。

 

明治以後の七崎観音の祀られ方の変遷

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)と

称される聖観音は秘仏で

毎年旧暦1月17日にのみご開帳され

そのご宝前にて法要が行われます。

 

現在、七崎観音として

認知されている仏像は

1687年に藩主・南部重信公が

「御前立ち」として奉納されたものです。

 

「御前立ち」というのは

本体の仏像の前に安置される仏像

という意味です。

 

七崎観音のご本体にあたる仏像は

これまでよく分からなかったのですが

本堂建替という歴史的な節目において

所蔵する仏像・仏具・史料・資料などを

総整理しつつ調査も進めていた所

どの仏像が七崎観音のご本体かが

判明いたしました。

 

本体にあたる七崎観音の仏像は

1655年に藩主・南部重直公が

奉納されたものになります。

 

重直公と重信公は兄弟です。

 

消えかけていた歴史を

後世に留めることが出来たことに

奇縁を感じさせられます。

 

当山ではご本体の七崎観音を

本(もと)七崎観音と呼び

現在七崎観音として祀られている御前立ち仏を

現(げん)七崎観音と呼び分けています。

 

これまでも

七崎観音について

色々と紹介してまいりましたが

今回は明治以後に

どのように安置方法が

変化していったのかについて

取り上げたいと思います。

 

安置方法の変化をたどると

その時々における七崎観音の認識が

いかなるものであったかですとか

認識の変化と思われるものを

汲み取ることが出来ます。

 

安置方法についていうと

お祀りするスペースの関係もあったことは

忘れてはならないことです。

 

限りあるスペースでは

出来る形でしか采配することが出来ません。

 

本七崎観音の仏像は大きいもので

昭和後期までは大きな厨子に

納められていました。

 

そうすると

高さも奥行きも必要となるわけで

スペースに限りがあるならば

本来のなすべき形ではなく

変則的な形で祭祀せざるをえないわけです。

 

そういった経緯ですとか

時の住職のお考えは

記録に残りにくいものですし

明治以後となると

頻繁に住職が交代し

記録に残っていない方も

いらっしゃる状態なので

十分な引き継ぎがなされていたとは

考えられません。

 

明治になると

もともとの観音堂は廃止され

観音堂内の仏像・仏具などは

別当寺である普賢院に

移されることになります。

 

明治になり

七崎観音は当山に遷座されたのですが

空の旧観音堂へ観音参りに

訪れる方が耐えなかったため

七崎観音は再度旧観音堂に遷座され

そしてまた当山に

遷座されたという経緯があります。

 

拙僧泰峻の推測ですが

当山から旧観音堂へ遷座する際は

全てを移動させるのではなく

当時の背景や慣例等を踏まえるに

現七崎観音のみを

移したものと思われます。

 

神仏の遷座には

当然のことながら作法が伴うわけで

その意味を踏まえて考えると

本体である本七崎観音も

再度旧地にお連れするということは

しないと思います。

 

御前立ちであれば

いわば「分身」なので

再び旧地に一時的に移すというのは

無理のない判断だったと思います。

 

戦争のインパクトも大きいもので

62世住職・晃雄大和尚と

その弟である高明大和尚が

出征・戦死したため

当時の住職の妹が

お寺を守った期間もあります。

 

歴史の大きなうねりの中で

様々な要素が関連して

七崎観音にまつわる歴史が

徐々に忘れかけていったと

言うことが出来るでしょう。

 

以下に

画像資料を掲載するので

どのように祀られ方が

変わっていったのかを

ご確認いただけると幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

《ご開帳のご案内》

令和4年おこもりのご案内

 

《本年の七崎観音に関する記事》

かつての七崎観音堂のイメージ図

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方