学秀仏・千手観音坐像

普賢院は

糠部三十三観音霊場

第十五番札所でもあります。

 

札所の観音様である

七崎観音(ならさきかんのん)は

旧暦1月17日にのみ

ご開帳されます。

 

本年は2月28日が

ご開帳にあたり

ご宝前にて法要が行われます。

 

本年は仮本堂で行う

はじめてのご開帳でして

次の写真のように

主な仏像を仮観音堂から

お遷しいたします。

 

 

現在、七崎観音として祀られている

聖観音像は貞享4年(1687)に

当時の藩主・南部重信公により

奉納されたもので

これは御前立(おまえだち)として

納められております。

 

七崎観音として祀られていたのは

明暦元年(1655)に

南部重直公ご奉納の

「金色の聖観音」(本七崎観音)ですが

江戸から明治に変わる際の

神仏分離への対応に追われた

“ゴタゴタ”の中で

もともとの秘仏(本七崎観音)と

御前立が入れ替わったと思われます。

 

本七崎観音については

史料的根拠の確認が出来たため

先日その由緒が判明しました。

 

本七崎観音は

現在修繕中でして

お戻りは来年の予定です。

 

本年のご開帳の際

現・七崎観音のほかに

仮本堂にお祀りする観音像のひとつは

千手観音坐像です。

 

この千手観音坐像は

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)が

作仏されたもので

諸事踏まえるに

当山の中興期である

享保年間(1716〜1736)に請来され

千手観音堂に祀られたと思われます。

 

「青森の円空」といわれる

学秀和尚の仏像は

学秀仏(がくしゅうぶつ)と

いわれています。

 

本堂建替事業が開始される

少し前より着手していた

仏像・仏具・文書の調査を契機として

千手観音坐像が学秀仏であると

平成31年2月に確認されました。

 

凶作や飢饉が立て続いた

難しい時代において

切実な祈りが込められ

納められたものと思われます。

 

独特の雰囲気の

千手観音坐像がまとう

穏やかな雰囲気は

世の穏やかなることへの

願いが重ねられていると感じます。

舞茸と干し菊と余談

午前中の法事に

ご参列されていた方より

立派な舞茸をいただきました。

 

午後に法事をされた

施主さんから

干し菊をいただきました。

 

夕飯のおかずとして

調理してもらい

ありがたく

おいしく頂戴しました。

 

ときおり

有縁の方より

差し入れやお土産を

いただくことがありますが

お心づかいに

いつも感謝しておりますし

とても励みになります。

 

ここからは

完全な余談になりますが

本日は余談で

結ばせて下さい。

 

菊といえば

八戸の特産品でもあります。

 

その由緒について

諸説あるのですが

一説として

当地出身の江戸期の豪商

七崎屋半兵衛が

関西から菊をもたらして

それが食用菊(阿房宮など)の

起源となったという

エピソードがあります。

 

七崎屋半兵衛が

出生した家というのが

当地の松橋家の本家で

そちらの現在の当主

松橋平治さんに

当山本堂建設委員会の

建設委員長を

務めていただいております。

 

当地にまつわるエピソードは

色々あるのですが

「菊の請来譚」も

後世に伝えるべき

郷土のお話ではないかと感じます。

 

という

完全な余談の結びでございます。

 

令和3年最初のお寺ヨガ

寺子屋ワークショップ

お寺ヨガが開催されました。

 

本年も規模を縮小して

開催を重ねさせていただきます。

 

ご一緒下さった皆様

大変お疲れさまでした。

 

お寺ヨガの様子を

動画に編集したので

ご覧いただけると幸いです。

 

稀代の古刹 七崎観音⑮

普賢院に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)は

毎年旧暦1月17日にのみ

ご開帳されます。

 

 

本年は2月28日が

ご開帳の日にあたり

当日は午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

例年は護摩(ごま)を

行うのですが

仮本堂では護摩が出来ないため

本年は別形式で

ご祈祷の法要を厳修いたします。

 

この行事は「おこもり」といわれます。

 

おこもりの時季は

七崎観音や当山とのご縁を

お深めいただきたいとの

思いもあり

歴史や伝承について

ブログで取り上げております。

 

その一環として

「稀代の古刹」と銘打ち

気まぐれに投稿を

重ねてきましたが

今回は久しぶりの更新です。

 

今回は

先日お伝えした

南部重直公ご奉納の

聖観音(もとの七崎観音)について

史料に触れながら

見たいと思います。

 

 

明治9(1876)年に

国に提出された

青森県の地誌である

『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)。

 

江戸末〜明治初期の

当地について探ることが出来る

貴重な史料で

当ブログでも

しばしば触れております。

 

旧本堂では

観音堂は本堂内の内御堂で

内陣隣に設けられていましたが

もとは本堂とは別に

建立されていたお堂で

明治までは

現在の七崎神社の場所にあり

徳楽寺という寺号を持っていました。

 

明治になり

当地では神仏分離の対応として

当山が別当寺をつとめていた

観音堂(徳楽寺)が廃寺となり

七崎神社に改められます。

 

ここでは

『新撰陸奥国誌』の

当地の記述について

「発見」されたことを踏まえつつ

見てみたいと思います。

 

では

『新撰陸奥国誌』の

当地についての箇所を

以下に引用いたします。

※一部()で補足しています。

※色字は筆者によります。

※一部「」で注記・補足しています。

※長いですが、研究メモの兼ねているのでご容赦下さい。

 

七崎村

【中略】

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

堂は悉皆国知の修営にして

山城守重直

(始三戸に居り后盛岡に移る)

殊に尊信し

五百五石五斗三升三合を寄附し

繁盛弥益し

盛[岡]の永福寺 別当し

当所には普賢院を置き

外に修験 善覚院 大覚院

社人十二人 神子一人

肝煎等の者まて悉く具り

普賢院に十五石

善覚院に五石

大覚院に五石三斗

社人 神子 肝煎 各五石を分与し

 

明治元年以前は

毎月十八日 湯立の祈禱あり

 

正月七日◻丑の刻 護摩祈禱あり

 

三月 鳴鏑(なりかぶら)の祈禱あり

ヤフサメと云う

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所ありて

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

 

五月五日は四十八末社御山開と

唱える祈禱あり

(今末社は彊内に十二社を存す

当時は在々の山間等

数所にありと云う)

 

八月六日より十二日まで

荒神祭とて四条諸江郷の祭あり

 

同十三日中の祭と唱て

五月端午の祭と同式あり

 

同十七日 観音堂大法会あり

 

九月五日 御留(おとめ)の祭と云て

五月五日の祭と同じ祭あり

 

十二月十七日 年越しの祈禱あり

 

此の如く厳重の法会を

修行し来りたる

奇代の古刹なりしに

何故に廃除せしにや

 

明治三年 神仏混淆仕分の節は

三戸県管轄にて

県より廃せられたりしにて

元来観音を祭りし所なれは

神の儀に預るへき謂れなく

村民の昔より

崇め信せる観音なれは

旧貫を痛願なしけれとも

 

了に仏像は元宮と云て

壊輿祭器を納め置く所に

安置すへきに定れり

 

元宮は

往古草創せる旧阯にして

永福寺より南に当り一丁

(字を下永福寺と云う)

一間半四方の堂あり

(東に向ふ)

破壊に及ひしかは

修覆中は仮に

旧社人 白石守か家に安す

 

観音堂は元より

神社の結構に異なるを

廟殿の備もなく

仏像を除て其ままに

神を祭れはとて

神豈快く其の斎饌を

受へけんや

 

この廃除せる根源は思に

仏子の徒(ともがら)

僧衣を褫(とい)て

復飾せんと欲するに外ならす

 

左許(さばかり)の古刹を壊て

神の威徳を汚蔑すかの

小児輩(ちいさな子どもの意)

土偶人(土で作った人形の意)

を配置して戯弄するに異ならす

 

昔は仏子の度牒を受けて

律を壊る者は還俗せらるる

布令なりけれは

一たひ仏子たるもの

還俗するは

罪人と同く

仏子甚厭ひたりしと

◻◻の如く異なれり

 

社人の伝て

観音は正観音なと云伝れとも

形丸く径五寸厚二分の板銅にて

像は高出たるものにして

十一面観音の容に見ゆ

然れとも旧年の古物

形像定かに弁へからす

 

旧数枚ありし由なりしか

正保(1645〜1648)の

頃にや天火に焼し時

多消滅し全体なるもの

僅に一枚を存す

缺損たるものは数枚ありと云う

 

言か如んは則

御正体と称する古代の物にて

神仏共に今世まま存す

社人其何物たるを知らす

神祭豈難からすや

 

然るに里人

又七崎神社由来と

云ことを口実とする

 

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナギノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

(※聖観音安置の記述は七崎神社所蔵の貞享4年[1687]の棟札)

 

其文に

【棟札(当山所蔵)の文言は省略します】

(※明暦元年[1655]の観音堂並十二末社再興棟札)

(※明暦元年再興の観音堂は三間四方)

とあれは証とすへし

 

又遙后の物なれとも

封 奉寄附七崎山聖観世音菩薩

右に安永四乙未年(1775)

左に四月七日

別当善行院と■付し灯籠あり

 

旧神官小泉重太夫か祖

初代 泉蔵坊と云るもの

元禄中(1688〜1704)

別当職となり

大学院 正学院 正室院等あり

 

十一代大学院

明治四年正月復飾し神職となり

小泉一学と改め

子 重大夫嗣

同六年免す

 

同 白石守か祖

初代 明正院 承応中(1652〜1655)

別当となり后

行学院 善正院 善光院 善行院

善覚院 善教院 善道院 善明院等あり

 

十五代の裔

善行院 明治四年正月

神職に転じて白石守と改め

同六年免せらる

 

祠官兼勤五戸村稲荷神社新田登

 

寺院

普賢院

支村永福寺の西端にありて

旧観音堂の別当なり

 

大和国

式上郡長門寺小池坊末寺真言宗

宝照山と号す

 

建仁中(1201〜1203)の

建立の由伝れとも

往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年(1741)辛酉十一月

快伝と云る僧の中興なりと云り

※寛保元年十一月は快伝(傳)上人の没年月。

※普賢院開基は承安元年(1171)。

※ここでいう「開基」は再興や復興の意味。

※建仁中は開基・行海上人の没年と思われる。

※江戸期の過去帳には行海上人は中興開山とされている。

※当山開創の圓鏡上人は弘仁8年(817)5月15日に示寂。

※火災は文化7年(1811)。

 

本堂

東西六間南北七間

本尊は愛染明王 東向

※実際は東西六間南北八間(文化8年[1811]建立)

※文化7年(1810)以前は八間×七間

 

廊下

一間半に一間

本堂に続く

 

庫裡

東西五間半

南北三間半

本堂北にあり

※享保18年(1733)快傳上人が建立。

※快傳上人は庫裡建立の際、観音山(旧観音堂[現在の七崎神社]のある山)に2000本余り杉を植えたと棟札に記載。

 

【以下、省略】

 

IMG_3864

※上の俯瞰図をもとにした再現イメージ

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

(みちのく双書第19集)

pp.22-30。

 

引用した箇所の色字部分を

いま一度見ながら

補足していきたいと思います。

 

堂は悉皆国知の修営にして

山城守重直

(始三戸に居り后盛岡に移る)

殊に尊信し

五百五石五斗三升三合を寄附

 

全てのお堂は

全て藩の修営であり

特に南部重直公の信仰篤く

五百五石五斗三升三合を寄附した

と記されており

重直公について触れられています。

 

次の箇所では

慶安2年(1649)の

落雷による観音堂焼失以前について

紐解く手がかりとなる

情報が見られます。

 

観音は正観音なと云伝れとも

形丸く径五寸厚二分の板銅にて

像は高出たるものにして

十一面観音の容に見ゆ

然れとも旧年の古物

形像定かに弁へからす

 

旧数枚ありし由なりしか

正保(1645〜1648)の

頃にや天火に焼し時

多消滅し全体なるもの

僅に一枚を存す

缺損たるものは数枚ありと云う

 

ここには

焼失時まで七崎観音として

祀られていた御正体(みしょうたい)

について触れられています。

 

かつては七崎観音として

懸仏(かけぼとけ)が

祀られていたとされますが

そのことについて

述べられています。

 

それによると

御正体である懸仏は

銅造のもので

半径5寸(約15cm)

厚さ2分(約6mm)

観音像が取り付けられて

いたようですが

古い時代のことゆえ

細かなことは分からないようです。

 

懸仏は

いくつかあったそうですが

火災のため1枚を残して

ダメになってしまったようです。

 

火災について

「正保(1645〜1648)の頃」と

ありますが

慶安2年(1649)に落雷があり

火災が発生し

観音堂が焼失しております。

 

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

となっていますが

ここで記される棟札とは

現在七崎神社が所蔵している

貞享4年(1687)の棟札です。

 

この貞享4年(1687)というのは

南部重信公が

御前立(おまえだち)として

現・七崎観音の聖観音像を

奉納された年であり

棟札というのはその際の

ものと思われます。

 

その棟札に重直公が

明暦元年(1655)に

3間四方の観音堂を建立して

金色の聖観音像を安置したとあり

その聖観音像というのが

これまで由緒が分からなかった

古い観音像だったというわけです。

 

重直公が観音堂ほか末社を

再興された際の棟札は

当山が所蔵しております。

 

今回

見てきたことをまとめると

かつての観音堂には

懸仏が祀られていたが

落雷による火災により

観音堂は焼失したうえ

懸仏も多くが失われ

その後

重直公により再興され

聖観音像が安置された

ということになります。

 

長らく忘れられていた

観音像の由緒が

本堂建替という

とても大きな節目にあたり

再び掘り起こすことが出来

深いご縁を感じています。

仮本堂に涅槃図をお祀りしております

昨日より仮本堂に

涅槃図(ねはんず)を

お祀りしております。

 

涅槃図は

釈迦様の最期の場面を

描いたものです。

 

お釈迦様は

2月15日に入滅(にゅうめつ)

されたと伝えられます。

 

現在所蔵している涅槃図は

平成4年(1992)に

新調されたものです。

 

これまでは

会館の脇間の床の間にて

祀られていましたが

脇間の床の間を

昨年改造して祭壇が

設けられた関係で

取り外すこととなりました。

 

そのため今後は

2月初頭から15日まで

涅槃図をお祀りして

お勤めさせていただきます。

 

重直公ご奉納の聖観音像〜”元”七崎観音の「発見」〜

昨年、由緒が明らかになった

古い観音像(現在修繕中です)。

 

本堂建替に伴い取り掛かっている

仏像・仏具や文書の整理の

甲斐ありここ何年か

歴史的発見が続いていますが

観音像の素性が判明したことも

とても大きなことでした。

 

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普賢院の観音堂本尊である

七崎観音(ならさきかんのん)の

大切な行事「おこもり」が

本年は2月28日(旧暦1月17日)に

行われます。

 

そういった時季でもあるので

昨年新たに判明したことの

整理を行い

なるべく分かりやすい形で

紹介したいと思います。

 

ダイジェストを

次の画像にまとめたので

まずはそちらをご覧下さい。

 

 

昨年新たに判明したのは

図でいうと青で示された箇所の

聖観音像についてです。

 

こちらの観音像は

とても古いもので

昭和期までは

大きな厨子に

納められていました。

 

大きな厨子は

傷みが顕著だったため

すでに処分されています。

 

その由緒については

長らく不明だったのですが

これまで積み重ねてきた

“探求”が功を奏しまして

明暦元年(1655)に

南部重直公により奉納された

ということが判明しました。

 

旧観音堂は

慶安2年(1649)に落雷により

焼失しています。

 

その後

重直公を施主として

承應3年(1654)〜明暦2年(1656)に

観音堂ほか末社十二社が

再興されおり

その棟札が残っております。

 

『寺社記録』によると

落雷による観音堂焼失後の

慶安4年(1651)にも

再興されたと記述が見られます。

 

この時期

重直公は病を患っており

藩内の多くの寺社仏閣に

病気平癒のご祈祷をするよう

藩令が下されていました。

 

病状が一時回復した重直公は

“ご祈祷の御礼”もかね

各所の寺社仏閣の

修繕事業の施主となられています。

 

七崎観音堂についても

その時期とちょうど重なります。

 

重直公は

寛文4年(1664)年秋にご逝去され

同年冬に次代藩主となられたのが

重信公で

現・七崎観音の聖観音像を

ご奉納された藩主です。

 

重信公は「御前立(おまえだち)」

として聖観音像を

納められています。

 

「御前立」とは

本尊などの主要な仏像の前に

ご安置される仏像です。

 

これまで触れてきたことを

踏まえるに

明暦元年(1655)以降は

重直公がご奉納された

聖観音像が七崎観音として

祀られていたと考えられます。

 

重直公ご奉納の聖観音が

七崎観音として祀られ

その御前立として

重信公ご奉納の

現・七崎観音が

祀られていたと思われます。

 

ではなぜ現在の形に

なったのかについてですが

思い当たる所が

いくつかありまして

この点については

後々記させていただきます。

 

▼『新撰陸奥国詩』掲載の俯瞰図をもとに

近世の当地の再現イラスト。

 

▼近世における主なお堂の

建立年代と規模。

本年の七崎観音ご開帳は2月28日です

 

毎年旧暦1月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)を

ご開帳して

そのご宝前にて

法要が行われます。

 

この行事は「おこもり」と

呼び習わされています。

 

本年の「おこもり」は

2月28日となります。

 

例年ですと

護摩法要を行うのですが

仮本堂では護摩が出来ないので

別形式でご祈祷の法要を

行わせていただきます。

 

ここしばらくは

七崎観音の歴史に触れながら

本年のおこもりのご案内を

させていただきたいと思います。

 

新本堂の仏像配置イメージです

業者さんからいただいている

図面をもとに

祭壇部分をイラスト化し

主な仏像の配置図を

作ってみました。

 

現時点での配置図なので

実際に配置した後

変更する可能性もあります。

 

小さな仏像については

記載を省略しています。

 

仏像の縮尺は

ざっくりしたものなので

大きさについては

正確なものではありません。

 

あくまでも

具体的なイメージを

つかんでいただくための

一資料として作ったものです。

 

新本堂の建立にあたり

拙僧(副住職)は

建築のことや電気設備のことや

水道などなど

分からないことだらけなので

それらに通じている

建設委員の皆様に

頼らせていただいているのですが

仏像の配置については

一任されておりました。

 

責任重大です。

 

この配置をどうするは

設計にも関わることなので

早くから検討に

取り掛かってきました。

 

最近は照明などの設備の

検討も始まったため

再び配置を見直したうえで

今回のイメージ図は

作られています。

 

仏像の配置には意味があります。

 

意味が込められた

まさに当山の“立体曼荼羅”。

 

来年の秋には

実際の空間に

身を置くことが出来ます。

 

これまで

お支え下さった多くの皆様と

ご一緒に祈りを

捧げられる日が

待ち遠しい今日この頃です。