浮かび上がる古い聖観音の履歴

2019/8/24のブログで

「大発見かもしれません」の

タイトルで書かせていただきましたが

当山観音堂に祀られる

古い聖観音像の由緒を

紐解くことが出来そうです。

 

▼以前のブログはコチラ

https://fugenin643.com/blog/%e5%a4%a7%e7%99%ba%e8%a6%8b%e3%81%8b%e3%82%82%e3%81%97%e3%82%8c%e3%81%be%e3%81%9b%e3%82%93%e3%80%9c%e6%97%a9%e7%a8%b2%e7%94%b0%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e3%81%a8%e6%99%ae%e8%b3%a2%e9%99%a2%e8%81%96%e8%a6%b3/

 

今回とりあげている

聖観音像は次のものです。

 

観音堂内殿に

お祀りされてきた

こちらの古い聖観音像。

 

少し前までは

とても大きな厨子(ずし)に

お祀りされていたそうですが

傷みが著しかったため

厨子は処分されたそうです。

 

今回の結論を先に述べると

この古い聖観音像は

宥鏡上人が本坊住職の時代である

承応3年(1654)2月から

明暦2年(1656)9月の間に

南部重直公により奉納されたもので

また同時期に

早稲田観音(糠部三十三札所第23番)の

十一面観音も

作仏され奉納されている

と考えられます。

 

この年代は

当山所蔵の観音堂再興棟札に

記さているものでして

観音堂(三間四方)と末社十二宮を

承応3年(1654)2月〜明暦2年(1656)9月

にかけて再興したと

明記されることによります。

 

この時に観音堂に祀られた

観音像が今回話題としている

聖観音だと思われます。

 

この再興というのは

慶安2年(1649)に落雷で

観音堂が焼失したため

なされたものです。

 

棟札が示す観音堂というのは

現在の七崎神社の地にあったもので

徳楽寺という寺号が用いられておりました。

 

徳楽寺は

明治になり廃寺となり

七崎神社にあらためられ

観音様はじめ仏像仏具は

当山本堂へ遷されました。

 

当山観音堂内殿中央には秘仏の

七崎観音(ならさきかんのん)が

安置されており

その隣脇に古い聖観音は

お祀りされておりました。

 

内殿の観音扉は

1年に1度しか開かないため

じっくりとその特徴を

観察することもありませんでしたが

209年ぶりの本堂建替にあたり

数年前から全ての仏像について

細かに調べ直しておりました。

 

そういった経緯があり

いま話題としているお仏像についても

大まかな特徴を

つかんでおりました。

 

そして

昨年たまたま目にしていた

滝尻善英氏の観音霊場の冊子に

掲載されている

早稲田観音の観音像のお姿と

当山に祀られる古い観音像が

とても似ていることに

気がついたのです。

 

早稲田観音を別当として

管理していたのは永福寺です。

 

当山は

開創が平安初期(延暦弘仁年間)

開基が承安元年(1171)ですが

鎌倉〜江戸時代初期は

永福寺の寺号(じごう、お寺の名前)が

主に用いられております。

 

鎌倉時代

永福寺は三戸にも伽藍を

整えており

おそらく三戸の永福寺が

永福寺本坊という

位置づけだったと思われます。

 

江戸初期

盛岡に永福寺本坊が構えられた後は

在地の別当として

自坊(直轄管理する飛び地のお寺)

嶺松院(れいしょういん、明治2年に廃寺)

が早稲田観音を司っております。

 

普賢院も永福寺自坊でして

本坊(盛岡永福寺)住職が

普賢院先師としても

その名を連ねられております。

 

前置きが長くなりましたが

歴史的に密接に関わる

この早稲田観音のお姿を

滝尻氏の本年刊行された

著書からお借りして

紹介させていただき

その後に当山の観音像と

見比べてみたいと思います。

 

 

 

ご覧の通り

細かな造形まで

酷似しているのです。

 

スライドにも

記してある滝尻氏の参考文献では

以下のような記述があります。

 

観音堂に保存されている

万治2(1659)年の棟札には

寛永17(1649)年3月に

門前のたき火が飛び火して

焼失したため

宥鏡法印の代に再興し

本尊も修復したと記されている。

 

このときの肘木には

「早稲田観音堂

南部二十九代(実際は28台)

山城守重直公代

永福寺住持宥鏡再興」とある。

 

滝尻善英2020『奥州南部観音霊場巡り 糠部三十三所』デーリー東北社、p.107。

 

滝尻氏は

早稲田観音は棟札に記される

万治2年(1659)よりも

古いと見られると

同書で述べられております。

 

当山に祀られる観音像と

早稲田観音の類似性と

当山所蔵の観音堂再興棟札と

当山と早稲田観音の歴史的背景を

踏まえると

万治2年(1659)から少しさかのぼる

承応3年(1654)〜明暦2年(1656)に

早稲田観音である十一面観音像は

奉納されたと考えられます。

 

早稲田観音の別当をつとめていた

嶺松院(現在はありません)は

江戸初期〜末期に盛岡永福寺を

当山と同じく本坊としており

密接な関わりのある寺院です。

 

当時の本坊住職である

宥鏡上人は

本山の長谷寺(奈良県桜井市)から

おいでになった方です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音であり

また長谷寺は西国三十三観音霊場の

草創に深く関わるお寺で

“観音信仰の拠点”ともいうべき所です。

 

長谷寺からいらした宥鏡上人は

観音様とご縁の深い方であり

自坊(普賢院と嶺松院)観音堂の

再興にご尽力されていたことは

後世に伝えたい事績といえます。

 

ちなみにですが

今回話題としてきた

聖観音像は修繕のため

現在は“お留守”にされております。

 

今回述べさせていただいたことは

かつて当地に存在し

江戸期には盛岡南部藩の冠寺となる

永福寺の歴史を後世に伝える上で

とても有意義なものであるとともに

地域の交流のきっかけにも

なりうるものだと感じます。

「そういえば」が尽きません

昨日は有縁の方の葬儀を終え

お寺に戻ってすぐに

パソコンを開いて

オンラインで研修会。

 

本当にすごい時代になったと

感じております。

 

この研修会は

本来は上京して

参加するものでしたが

本年の状況を踏まえ

本年は完全オンライン化されました。

 

今回も当山の将来に

大いに資する有意義な

学びと気づきを得られました。

 

さて

本日は書店に赴いて

来年の手帳を購入しました。

 

年越しの準備に

本腰を入れる時季と

なってまいりました。

 

そういえば

当山は本堂解体工事に伴い

境内外灯が使えないため

夜は外が真っ暗です。

 

ということは

本年の除夜の鐘では

照明を準備しなければなりません。

 

それか

ご縁があり昨年実施した

お寺イルミネーションを“応用”して

明かりを確保するという方法も。

 

「そういえば」

と次々に出てまいりますが

良い年越しが出来るよう

力を尽くしたいと思います。

 

歴史をしのばせる永福寺通り

普賢院は

真東を向いて

建立されております。

 

お寺から真東に

のびる永福寺通りは

門前町の歴史を

今に伝えております。

 

朝焼けで幻想的な

ふるさとの光景を

空撮してみたので

本稿で紹介させていただきます。

 

▼動画はコチラ(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=SGD4DBfKXTY&t=3s

 

▼空撮①【2020/11/18朝】

ズバッと真東にのびる

「永福寺通り」は壮観です。

 

永福寺(えいふくじ)とは

現在の町内名ですが

当山はかつて永福寺の

寺号(じごう、お寺の名前の意)が

用いられておりました。

 

 

▼空撮②【2020/11/18朝】

手前中央が「本堂跡地」です。

 

高い所から見ると

本当に跡形もありません。

 

 

▼空撮③【2020/11/18朝】

太陽が真東から上る

彼岸中日(春分の日&秋分の日)は

お寺からまっすぐのびる道の

真先から日が上るように見えます。

 

今の季節は写真の様に

南より(写真右側)から

太陽が上ってきます。

 

沈む太陽に祈りをはせる

本日の夕焼けは

とてもきれいでした。

 

空気がすんでいたので

遠くまで視界が

はっきりとしておりました。

 

今日は

夕焼けの光景に

じっくり思いをはせたい

心持ちだったので

上空からの映像を

短い動画に編集しましたので

よろしければご覧下さいませ。

 

西は

ふるくから極楽の方角とされ

さまざまな祈りが

なされてきた方角です。

 

本日の日の入りに

さまざまな願いを重ね

明日もしっかりと励ませて

いただきたいと思います。

 

宝暦13年春三月の棟札と『御領分社堂』

江戸期に

当山はどのような様子であったかを

うかがい知ることが出来る

史料のひとつとして

『御領分社堂』があげられます。

 

『御領分社堂』は

当時の観音堂(七崎山 徳楽寺)と

様々なお堂(小社)の様子を

伝えております。

 

ここでいう観音堂は

現在の七崎神社の場所に

明治時代になるまであったお堂でして

七崎山徳楽寺という寺号が

用いられておりました。

 

明治までは

四間四方のお堂で

護摩堂を兼ねた観音堂であったことが

史料より分かっております。

 

ここ数年

旧観音堂を「永福寺本堂」と紹介する

文献がいくつか見られましたが

旧観音堂は本堂ではありません。

 

専門性の高い要素であったり

内部の者にしか分からない事柄が

いくつも絡んでいるため

そのような記述になってしまうのも

無理ないことだと思いますが

地元で伝えられることと

あまりに乖離したものを

生半可な状態で由緒であると

紹介されることは

当山としても好ましくありません。

 

話を戻しまして

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査を

まとめたものです。

 

なので

同書に掲載されている内容は

宝暦13(1763)以前のものとなります。

 

というのも当山には

宝暦13年(1763)3月の棟札(むなふだ)

3枚が所蔵されているのですが

その内容が同書『御領分社堂』には

反映されておりません。

 

少し細かなことかもしれませんが

当山に所蔵される棟札と

関係する部分でもあるので

本稿にてご紹介いたします。

 

『御領分社堂』では

七崎(豊崎の古称)について

以下のように

記載されております。

 

※( )、文字色は筆者によります。


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

上記では

大日堂、愛染堂、不動堂

の3つのお堂が

小社(小さいお堂の意)ゆえ

棟札(むなふだ)も無いと

掲載されております。

 

この調査は

先にも触れたように

宝暦9年(1759)のお触れにより

実施されたもので

『御領分社堂』が報告書として

まとめあげられたのが

宝暦13年(1763)なので

七崎(現在の豊崎)の調査が

実施されたのは

宝暦13年(1763)以前だと

いえると思います。

 

その宝暦13年(1763)三月に

大日堂(天照皇大神宮)、

愛染堂、不動堂が

再建されていることが

当山所蔵の棟札から分かります。

 

大日如来は天照大神と

本地垂迹の関係で捉えられております。

 

そのことは

大日如来を象徴する種字(梵字)が

荘厳体で記されたうえで

天照皇大神宮一宇云々と

棟札に書き留められていることからも

うかがわれるかと思います。

 

愛染堂も不動堂も

同時期に再建されております。

 

棟札には

大檀那大膳太夫利雄公と

記されており

再建の大檀那(大施主)は

当時の盛岡南部藩藩主である

南部利雄(としかつ)公

であることが分かります。

 

盛岡南部藩家老の日誌『雑書』

文化7年(1810)7月6日の所に

当山について触れておりまして

ここに江戸中期の本堂の規模が

八間×七間であることが

記されており

またこの時点で

その本堂が「数十年罷成」とあります。

 

なので

1810年から数十年前に

何らかの大きな“手入れ”が

本堂になされたのだと思われます。

 

建替えなのか修繕なのかは

分かりませんが

1700年代のどこかで

事業がなされたのでは

ないでしょうか。

 

1700年代といえば

享保年間(1716〜1736)に

快傳上人により中興されております。

 

そして

今回紹介した棟札が示すように

宝暦13年(1763)には

大日堂(天照皇大神宮)、

愛染堂、不動堂が再建されました。

 

参考までにですが

宝暦6年(1756)には

御輿(みこし)が「再修覆」

されております。

 

本稿でとりあげた棟札は

快傳上人により

中興されて以降の

当山の“歩み”を紐解く上で

とても貴重なものだと感じます。

昭和期の写真を並べつつ本堂解体の様子をお伝えします

本堂解体の工事は

水道管の処分など

細かな作業を残し

無事に終了したようです。

 

解体工事の様子を

動画でお伝えしてまいりましたが

今回の動画で

区切りとさせていただきます。

 

動画「ただいま本堂解体中」は

今回もあわせると13本

アップさせていただきました。

 

最後となる今回は

昭和期の本堂の写真も並べつつ

用意させていただきましたので

ご覧いただけると幸いです。

 

解体作業も大方終わったようです

本堂解体作業は

細かな作業を残して

大方終わったようです。

 

普賢院の本堂建替事業は

209年ぶりということもあり

この歴史的大事業を

出来る限り記録として残し

そして有縁の方に

状況をお伝えすべく

動画を編集し

アップしてまいりました。

 

解体については

本日と明日の動画で

一応の区切りと

したいと思います。

 

本日も動画を用意出来たので

ご覧頂けると幸いです。

 

ほぼほぼ更地となりました

お寺の歴史に触れながら

本堂解体の様子をお伝えする

ただいま本堂解体中

の⑪をアップしたので

ご覧いただければ幸いです。

 

今回は

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)についても

触れております。

 

南祖坊のお像である

南祖法師(なんそほっし)尊像が

普賢院には

お祀りされておりますが

当山にお運びの際は

お参りいただき

ご縁を深めていただければと思います。

 

現本堂の前の本堂を伝える記事を紹介します

盛岡南部藩の家老の

“事務日記”である『雑書』(ざっしょ)。

 

盛岡藩政期の藩政の様子や

領内の主だった出来事を

うかがい知ることが出来ます。

 

その『雑書』の

文化7年(1810)7月6日と

文化8年(1811)閏2月22日の箇所に

当山についての記述が

見られます。

 

あらためて

確認してみると

現本堂以前の本堂についてのことや

当時の様子についての

一端が垣間見られるので

こちらで紹介させていただきます。

 


※( )と下線は筆者によります。

 

①文化7年(1810)7月6日

 

五戸七崎村普賢院

看主(覚宥)願出候は

本堂八間二七間之処

数十年罷成大破仕

去年九月境内杉願上頂戴仕

尚旦(檀)家共より得助力候得共

少旦(檀)家故行届兼迷惑仕候間

七崎村近村旦(檀)家共申合

講会弐会興行仕

右余分を以

普請入料へ足加申度候間

被 仰付被下度旨

永福寺末書を以申出

其筋為逐吟味

相対を以

講会願之通

寺社御奉行へ申渡之

 


 

②文化8年(1811)閏2月22日

 

五戸七崎村普賢院

此度本堂再建成就仕候二付

為入仏供養導師仕候二付

長谷寺差遣度候間

往来十八日御暇被下度

願之通御暇被下置候ハゝ

来る廿五日

此元出立為仕度旨

永福寺申出

願之通寺社御奉行へ申渡之

 


 

この2つの記事は

貴重な情報や状況を

いくつか伝えております。

 

①の記事で

看主とあるのは

当時の普賢院住職・覚宥師です。

 

覚宥師は現本堂の再建時の方で

他にも鐘楼堂の再建(文化5年[1808])

千手観音堂の再建(文化11年[1814])

も成し遂げられております。

 

現本堂は八間×六間ですが

その前の本堂は八間×七間

であるということが

この記事からは分かります。

 

「数十年罷成」

(数十年経過しての意)

とあることから

文化7年(1810)時点の本堂は

1700年代に再建など何らかの

“手入れ”があったと思われます。

 

享保18年(1733)の

棟札は「再建立當寺屋敷共…」とあり

当山中興(ちゅうこう)の

快傳(かいでん)上人が

大掛かりな事業をされております。

 

中興(ちゅうこう)というのは

本堂などの伽藍を

手がけられた住職に対し

形容される言葉でして

細かなことを言えば

快傳上人以外にも

中興と形容されるかたは

当山先師には多くいらっしゃいます。

 

その中でも殊に快傳上人は

「中興開山」された先師として

位置づけられております。

 

現本堂以前の本堂は

もしかしたら

この快傳上人の時代に

再建などが成されたかもしれません。

 

文化7年の火災については

具体的に触れられておりませんが

①の記事によると

火災に遭う以前より

本堂の傷みがあって

前年(文化6年[1809])9月より

何かしらの準備が進められていたか

検討されていたことが

うかがわれます。

 

また

江戸期は本坊(盛岡永福寺)が

盛岡にあり

当山は自坊として

“飛び地の直轄管理”のような

形だったため

境内の杉を使うにも

お堂に手入れをするにも

本坊を通して

寺社奉行の許可が

必要だったことがうかがえます。

 

文化8年(1811)の

入仏供養(現在でいう落慶式)の

導師についても

本坊や寺社奉行を通して

決定されており

何をするにも

煩雑な手続きが

必要であったことが

伝わってまいります。

 

いつの世も

色々と大変だということを

今回の記事は

伝えているようにも思うのです。

 

 

▼【本堂解体の様子】

仁王門が解体されました。

 

廃材もほとんど運び出され

基礎を残すのみといった状態です。

 

本日も解体の様子を

お寺の歴史に触れながら

お伝えする動画を用意出来ましたので

よろしければご覧下さい。

 

▼動画はコチラ(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=AEPluXR9Wpc

 

今もあり続けていることの凄みを痛感します

晴れてはいても

風は冷たく

室内もストーブがないと

ちょっと厳しくなってきました。

 

今日も朝から晩まで

デスクワークに没頭いたしまして

体がバキバキです。

 

年末の気配を感じつつ

本日も実りある一日に

することが出来たと

感謝しております。

 

本日も

お寺の歴史と解体の様子を

お伝えするべく

動画を一本用意出来たので

ぜひご覧下さいませ。

 

動画は情報量が

圧倒的に多いので

とても有意義だと感じるのですが

編集にまだまだ不慣れなため

想像以上に労力を要しております。

 

これを機に

経験を積ませていただき

多くの有縁の皆様に

色々とお伝え出来るように

してまいりますので

お付き合い下さいませ。

 

少し話は変わりますが

お寺の歴史が古いだけに

不明な点も多くございます。

 

江戸時代に

南部藩筆頭寺院の寺格にまで

のぼりつめることとなる

宝珠盛岡山永福寺(えいふくじ)の

祖院(そいん、発祥のお寺の意)

当山は当たるわけですが

その由緒の編まれ方には

時代時代の背景や意図が

感じられます。

 

諸説あるのは

それぞれに

それぞれの意図が

あるともいえるでしょう。

 

いずれにせよ

古い時代から現在にいたるまで

当山を守り伝えて下さった方が

いらっしゃることには

変わりありませんし

今もなお普賢院が

存在し続けていることの

凄みを改めて痛感させられる

今日この頃です。