南祖坊彼岸来臨伝説

南祖坊(なんそのぼう)が

春と秋の彼岸になると

永福寺に来臨するとの

いわれがあります。

 

永福寺とは

鎌倉期から江戸前期にかけて

当山で用いられた寺号です。

 

▼関連記事

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/彼岸と南祖坊/

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑨/

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑩/

 

南祖坊に関する行事が

かつてはあったそうですが

明治以後に絶えておりました。

 

そこで本年は6月に

南祖祭(なんそさい)を開催し

祭事執行後に

ゲストスピーカーである

髙山正道さんに太陽信仰の視点から

南祖坊伝説についてお話して頂き

ご参加の皆様に

十和田湖南祖坊伝説と

お向き合い頂きました。

 

※その際のブログです▼

https://fugenin643.com/blog/伝説とつながる南祖祭(なんそさい)/

 

伝えによると

南祖坊の行事は春と秋の2回

行われていたそうなので

秋にも南祖祭を開催したいと

考えております。

 

さて

気がつけばもうすぐ

南祖坊が来臨するともいわれる

秋彼岸を迎えるので

心して準備に取り掛かりたいと思います。

 

糠部三十三観音霊場における寛保3年の意義

以前にもブログで紹介しましたが

当山観音堂には

寛保3年(1743)12月に

納められた賽銭箱がございます。

 

※以前のブログはコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/寛保3年の賽銭箱/

 

寛保3年(1743)は

現在の糠部三十三観音にとって

とても大切な年でもあります。

 

天聖寺第8世の則誉守西上人が

永正9年(1512)の観光上人による

糠部三十三観音を元に

新たに巡礼したのが寛保3年6月であり

その札所が現在の糠部霊場となっております。

 

現在の三十三観音札所が

新たに“定められた”年でもある

寛保3年(1743)。

 

そのメモリアルイヤーに

納められた賽銭箱。

 

詳細は分かりませんが

糠部霊場における

「寛保3年」の意義を

今に伝えているように感じます。

 

【参加者募集】9/26光の旋律〜瞑想と精進カレー〜

瞑想で心身を整え

民族楽器演奏にひたり

精進カレーでお腹と心を満たす

素敵な催事が9/26の

午前10時より催されます。

 

当山ではすっかり

お馴染みとなった

民族楽器奏者の

奈良裕之(ゆうじ)さんと

心身をときほぐす時間を

ご一緒しませんか?

 

日程:令和元年9月26日

時間:午前10時〜正午頃

会場:普賢院ふれあい豊山館

会費:2000円

 

どなた様でもご参加頂けますので

ご興味をお持ちの方は

お気軽にお問い合わせ下さい☆

 

集えることのありがたさ

『親子で学ぶ子ども論語塾』が

開催されました。

 

今回は法務のため途中までしか

ご一緒出来ませんでしたが

時折ご縁のある方と

講師のお言葉に耳を傾けられることは

とてもありがたいことだと感じます。

 

様々な分野の“大先輩方”が

携わられていらっしゃる取り組みなので

何気ない会話の中からも

大切な学びや気づきを頂いております。

 

人が集う所には文化が生まれ

文化のある所には人が集まる

といわれますが

「集う」ことの有意義さを感じました。

 

御詠歌三昧

9/5〜6は東京出張で

大本山護国寺境内の宗務所へ

御詠歌の詠秀(えいしゅう)研修会と

豊山流大師講企画検討会議に

出席してまいりました。

 

とても実り多い2日間でした。

 

8月のお盆が過ぎると年末にかけて

あれこれと出張が殊に多くなります。

 

あちこちに赴くこと自体に

かなりの“情報量”があるので

ありがたいことに

いつも沢山のことを

学ばせて頂いております。

 

宗務所へ出張する際は

必ず護国寺を参拝させて頂くのですが

境内各所見所が多いだけに

毎回新鮮な心持ちになります。

 

これもご功徳であると

いえるかもしれません。

 

毛馬内の月山神社

毛馬内(けまない)の月山神社。

 

こちらはかつて

月山 廣増寺(こうぞうじ)が

別当をつとめておりました。

 

江戸時代には

この廣増寺から

当山においでになられた

先師がいらっしゃいます。

 

廣増寺は

永福寺の門徒寺院という

本末関係があったため

当山との行き来がありました。

 

毛馬内の月山神社本宮は

山深いところに鎮座しており

霊験あらたかな雰囲気が

感じられました。

 

素晴らしき津軽烏城焼

弘前へ不動明王の脇侍(わきじ)の

御仏像をお迎えにあがった際に

何気なく立ち寄った黒石市の

「津軽烏城焼(うじょうやき)」。

 

そこには

素晴らしい陶工さんご家族が

いらっしゃいました。

 

こちらにございます

103メートルにも及ぶ

大登り窯は

近いうちにギネスに

登録される見通しだそうです。

 

突然の訪問にも関わらず

ご丁寧におもてなし下さり

様々なお話しを聞かせて頂きました。

 

陶器や磁器について

今回ほど魅了されたことが

これまであったでしょうか。

 

こちらの陶工である今井理桂さんは

平安・鎌倉期の経塚に

経筒とともに地に鎮められた

壺に魅了され

陶工の道を歩まれたそうです。

 

様々な時代や地域の

陶器や磁器に通じていらっしゃる

今井さんのお話しを

とても興味深く聞かせて頂きました。

 

これほどの方が

青森県にいらっしゃるとは

全く知りませんでしたし

青森県人の一人として

誇りに感じます。

 

全国各地で展示会を

開催されているようで

近々八戸でも展示会が

催されるとのこと。

 

是非多くの方に

今井さんを知って頂きたいと思います。

 

色々と話が弾むうちに

驚くほど様々な所で

ご縁が“交差”していたこともあり

すっかり長居させて頂きました。

 

大変ありがたいことに

今井さんのご厚意で

本堂建替にあたって

地鎮式で新本堂が建立される地に

鎮められる仏具の器を

製作して下さり

ご奉納頂けることになりました。

 

ご縁とは本当に不思議なものです。

 

今回の素晴らしい出会いで

結ばせて頂いたご縁に

感謝しております。

 

▼烏城焼についてはコチラ(HP)

https://www.ujoyaki.jp

“蘇る”不動明王脇侍の二童子像

不動明王の脇侍(わきじ)である

矜羯羅童子(こんがらどうじ)

制多迦童子(せいたかどうじ)

という童子像を

弘前にお住まいの

仏師・小堀寛治さんに

作仏して頂きました。

 

小堀さんが手がけられる御像は

とても柔らかで優しい雰囲気を

まとわれています。

 

今回仕上げて頂いたお仏像もまた

仏師さんのお人柄の如く

慈悲に溢れるような

お姿をされていらっしゃいます。

 

当山は文化7年(1810)に

本堂が火災に見舞われており

その際に二童子像が焼失したと見られます。

 

謹んでお祀りさせて頂きましたが

200年以上の時を超え

久しぶりに脇侍を従えた不動明王像が

一層神々しく感じられます。

 

新本堂の基本設計が定まってまいりました

長い間使われることなく

本堂の床下に置かれ

かなり傷んでいた

礼盤(らいはん)という台座を

五戸木工さんに塗り直して頂きました。

 

新本堂では子安地蔵を祀る地蔵堂の

スペースを現状よりも広くとり

お堂の配置を変える予定です。

 

具体的には

本尊内陣に向かって

右側奥を地蔵堂といたします。

 

その地蔵堂で

こちらの礼盤を設えようと

考えております。

 

新本堂の間取りが

大まかにですが

定まってまいりました。

 

8月25日に開催された

建設委員会において

基本設計の方向性の

承認を頂きました。

 

本設計は本堂建替をご担当頂く

業者さんを決定した後に

詰めていくことになります。

 

本堂建替事業はまだまだ道半ばですが

とても大切な段階を迎えているので

慎重に重要事項の決定を

重ねていきたいと思います。

 

千手観音坐像の厨子を仕上げて頂きました

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音坐像。

 

本年2月に

学秀仏(奇峯学秀作仏の仏像の意)であると

確認されてから

本格的に調べた所

この仏像は享保期の当山中興の頃に

当山に納められたと見ております。

 

学秀仏の千手観音は

現時点で他に作例が無いようです。

 

現在当山では

本堂建替事業を推進しており

その事業の中で

仏像仏具の修繕等にも

取り組むことにしております。

 

その一環として

学秀御作の千手観音坐像を安置する

厨子(ずし)の製作を

五戸木工の中野久男さんにお願いした所

とても立派な厨子に仕上げて頂きました。

 

感嘆させられるような

素晴らしい厨子を製作して頂き

心より感謝しております。

 

この千手観音坐像は

“美術的”にも歴史的にも

大変貴重な仏像といえます。

 

後世においても

祈り継ぎ

護り継い

語り継いで頂ければと思います。