夏空のもとでの法事

7/20に本堂にて

拙僧(副住職)である

品田豐(とよ)の三回忌と

その姉である道子の十三回忌

併せて先祖供養並三界萬霊供養

普賢院歴代先師供養を

執り行いました。

 

豐と道子には

2人の兄がいましたが

出征したため

当山は一時住職不在となり

その間“女の和尚さん”として

お寺を守りました。

 

激動かつ困難な時代において

祖母と大叔母の姉妹が

有縁の方々のお力添えを頂きながら

何とか当山を守りました。

 

現在の本堂は建替のために

近い将来取り壊される予定です。

 

おそらく今回が

現在の本堂で執り行う

当家最後の法事に。

 

当山住職と法務を執り行い

近い親戚とともに

祈りを捧げさせて頂きました。

 

お寺でマインドフルネス2019夏

本年5月に続き

2回目の開催となった

お寺でマインドフルネス

 

マインドフルネスは

仏教瞑想の流れを汲んだ

一種の瞑想で

“ストレス低減法”でもあり

“現代の瞑想”と呼ばれます。

 

根本は同じなのですが

前回とは別のアプローチで

マインドフルネスに

取り組ませて頂きました。

 

とにかく「今」に集中して

「気づき」を大切にするのが

マインドフルネスだそうです。

 

講師のバリーさんの

丁寧かつユーモア溢れるご指導の

おかげもあり

今回も貴重な体験と

貴重な学びの時間となりました。

 

明日から

拙僧(副住職)の長男は

地元の豊崎小学校1年生です。

 

長男は今日が1学期の終業式。

 

ということは

明日から夏休み。

 

小学生の頃の夏休みのことは

大人になっても案外覚えているものです。

 

さてさて

今年はどのような

夏休みになるでしょうか。

 

大変な部分もありますが

一緒に過ごせる時間が

いつもよりも長くなるので

親としても思い出に残るような

夏休みにしたいと思います。

 

棟札に耳を傾ける②

棟札について

久しぶりの投稿になりましたが

当山の歴史に触れつつ

まずは現在の本堂の

棟札に“耳を傾けて”みたいと思います。

 

掲載内容に

ボリュームがあるので

複数回に分けて

内容に触れていきます。

 

※棟札に耳を傾ける①はコチラ

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/棟札に耳を傾ける一/

 

この棟札は文化8年(1811)のもので

縦110cm×横20.5cm×厚さ3cmの

大きさがあります。

 

▼現在の本堂の棟札(文化8年(1811))【表】

▼同上【裏】

▼記載内容(右:【表】、左:【裏】)

 

本堂は言うまでもなく

お寺で最も大切なお堂で

本尊が祀られるお堂です。

 

本堂という言葉は

(ほんぞんどう)

または

(こんぽんちゅうどう)

に由来するとされます。

 

ここで少し

当山の由緒について

簡単に整理してみます。

 

当山は弘仁初期(810頃)に

圓鏡(えんきょう)上人が開創

承安元年(1171)に

行海(ぎょうかい)上人が開基されました。

 

鎌倉時代から江戸時代には

永福寺という寺号が

用いられており

永福寺42世・清珊(せいさん)の代に

当山では普賢院の寺号を主に

用いるようになったとされます。

 

永福寺の寺号は

現在も当地の住所・地名として

その名前を留めておりますが

鎌倉二階堂の永福寺(ようふくじ)に

由来しております。

 

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

二階堂の永福寺の僧侶・宥玄(ゆうげん)が

担当することになります。

 

その「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職に任じ

永福寺(えいふくじ)と号したそうです。

 

また宥玄は

沖田面村とともに

五戸七崎村を賜ることとなり

それを契機として

七崎のお寺も宥玄が司ることとなります。

 

宥玄は

永福寺の僧侶であったことから

七崎のお寺(当山)も

永福寺(えいふくじ)と

呼ばれるようになったそうです。

 

当山の本尊は現在

愛染明王(あいぜんみょうおう)

という尊格ですが

もともとは十一面観音を本尊としており

篤く敬われていたそうです。

 

今回採り上げた棟札には

愛染明王を本尊としてお堂(本堂)を

建立したことが記されております。

 

現在の本尊の愛染明王像は

文化7年(1810)に

盛岡永福寺 宥瑗(ゆうえん)より

寄付されたものです。

 

前置きが長くなりましたが

棟札の本文を見ていきます。

 

【表】中央部分は

以下のように記されています。

 


 

ジャク(愛染明王の種字の1つ)

奉本堂再建一宇 八間仁六間

本尊邏ギャ(訁に我)尊(愛染明王)

院内安穏 興隆佛法 諸難消除

當寺檀家息災延命 子孫繁昌 所

 


 

現在の本堂は

文化7年(1810)に火災に

見舞われております。

 

そのために

翌年に再建されたのが

現在の本堂であり

その際の棟札が

今回紐解いている棟札です。

 

冒頭に愛染明王をあらわす

種字(梵字)が書かれています。

 

この棟札は

単に記録が記された木札ではなく

この棟札自体が

本尊の愛染明王の象徴であり

曼荼羅を象徴することを意味します。

 

8間(けん)6間の

本堂を再建したこと

本尊が愛染明王であることが

記されているとともに

建立に際して託された

願いが添えられていることが

分かるかと思います。

 

〈院内安穏〉

お寺が安穏でありますように

 

〈興隆佛法〉

尊いみ教えが

多くの人々のために

なりますように

 

〈諸難消除〉

様々な困難を乗り越えられますように

 

〈當寺檀家息災延命子孫繁昌〉

ご縁ある方々が

健やかで過ごせますように

家々が繁栄しますうに

 

棟札には

様々な書式があると思いますが

当山所蔵の棟札は

どれも仏道的な作法が施されております。

 

今回見た棟札の中央には

①尊格(仏)の種字(梵字)

②建立したお堂のこと

③願目(祈願の項目)

が記されていました。

 

この構成は

当山に所蔵される他の棟札にも

見られるものです。

 

次回以降も

さらに読み進め

棟札が今に伝えていることを

少し丁寧に見ていきたいと思います。

 

▼現在の本堂

幾度となく修繕を繰り返してまいりました。

 

▼昭和26年(1951)の改修記念

▼昭和59年(1984)改修(屋根葺替ほか)記念

お不動様お迎え道中覚書④ 城ヶ倉大橋

7/8に修復を終えた

当山の不動明王像を

お迎えにあがった際の

「普賢院↔弘前」道中の覚書です。

 

十和田八幡平(とわだはちまんたい)

国立公園には景勝地が数多くあります。

 

そのうちの1つである

城ヶ倉(じょうがくら)渓谷。

 

渓谷には城ヶ倉大橋が架かっています。

 

天候にもよりますが

城ヶ倉大橋からは

岩木山を望むことが出来ます。

 

冬は厳しい環境ですが

厳しい冬に蓄えられた力を

夏になると盛んに感じられるような気がします。

 

山々への畏敬の心が

自然と湧き上がる光景が広がる

城ヶ倉大橋でした。

 

 

▼はるか先に岩木山頂上が見えます。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑨

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

千体仏作仏を三度成満し

それに加え数百体もの仏像を

彫られた“傑僧”です。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のように整理されます。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

当山にも学秀御作の仏像が

お祀りされます。

 

本年2月に

確認された千手観音坐像と

学秀御作と見られる

不動明王像

大黒天像が祀られております。

 

そういったご縁で当ブログで

学秀に関して

ちょくちょく触れております。

 

今回は千手観音坐像について

重ねて記させて頂きます。

 

少し前に

千手観音坐像のお身拭いをしました。

https://fugenin643.com/blog/千手観音のお身拭い/

 

筆を用いて

細部に至るまで

積もり積もったホコリを

払い落としました。

 

この千手観音坐像は

両側面部分に穴が空いており

拙僧(副住職)が数えた所

穴は36あるように見えます。

 

これまでは

側面の腕は喪失したものと

考えておりましたが

そもそも腕は

無かったのではないかと

最近は考えております。

 

先のお身拭いは

詳細に仏像を観察する機会にも

なったのですが

仏像側面部分の穴は

腕を差し込むためのものとは

考えにくいような

穴の作り方になっています。

 

諸穴が腕を差し込むための

ほぞ穴だとすると

あまりにも仕掛けが“甘い”のです。

 

この作りでは

ほぞ穴としての役割を

果たせないように感じます。

 

機能的な視点に加え

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)に

見られる特徴的な観点からも

考えてみたいと思います。

 

“装飾的意匠”が極力削がれた所に

学秀仏の大きな特徴があります。

 

そういった特徴を踏まえると

小さく細かな腕を多数こしらえて

一つ一つを差し込むような

作仏をしていたとは考えにくいのです。

 

ということで

拙僧(副住職)の見立てとして

正面の4本の腕以外には

当初から腕は無く

側面部の穴をもって

腕は表現されているのだと思います。

 

千手観音において

「千手」(複数の手)は

千手観音を千手観音たらしめる

重要な意味を持つものです。

 

重要な意味を帯びる

「千手」の存在を

しっかりと仏像に刻み

“無いもの”を表現したとすると

学秀仏の奥深さを

改めて感じさせられませんか?

 

終活雑誌に掲載されました

産経新聞出版『終活読本ソナエ』

(2019年夏号)にて

拙僧(副住職)がチラッと

登場させて頂いております。

 

取材して頂いた記者の方は

大学時代の先輩でもあり

人類学の研究室で

共に学ばせて頂いた方です。

 

終活について

多くの情報に触れられる雑誌なので

興味をお持ちの方は

是非ご一読下さいませ。

 

黙々と棟札の文字を書き写す

強い雨音の響く本堂で

棟札に記載される文字を

筆で黙々と書き写す。

 

朝から夕方まで

ひたすら黙々と。

 

これは7/12のお話です。

 

ただ単に

「手本」を移すという作業ではなく

解読を要するなど

頭を使うことも多く

切り上げる頃にはクラクラしました。

 

当山では毎年8月に

お盆を迎えます。

 

お盆には各地から帰省される方も多く

お寺にも多くの方がお参りされます。

 

当山では

本堂建替を控えておりますので

今年のお盆が

現在の本堂で迎える最後のお盆となります。

 

そのようなこともあり

主だった棟札には

一体どのようなことが

記載されているのかを

お参りされた方に

見て頂けるようにしようと思い

取り組みを始めた次第です。

 

当山に所蔵される

棟札や木札は

貴重な歴史を今に伝えております。

 

展示方法など

一切白紙状態ですが

当山とご縁のある方々に

当山の歴史に触れて頂けるよう

試行錯誤してみたいと思います。

 

“御山”岩木山

岩木山(いわきさん)は

標高1,625メートルの

県内で最も高い御山です。

 

ここ最近ちょくちょく

弘前を訪ねているのですが

岩木山はどこからでも

その姿を望むことが出来

多くの方に親しまれ

崇めれてきたということが

ひしひしと伝わってまいります。

 

その岩木山の山麓に鎮座する

岩木山神社(いわきやまじんじゃ)。

 

こちらの創建として

坂上田村麻呂将軍の伝説が

伝えられております。

 

境内の案内板によると

岩木山には

北東に巌鬼山(がんきさん)

中央に岩木山

南西に鳥海山の3つの峰があり

それぞれをご神体と見なして

三所権現(さんしょごんげん)と

称したそうです。

 

この三所権現は

阿弥陀如来

薬師如来

観音菩薩が

本地仏(ほんじぶつ)と

されているようです。

 

かつては

百沢寺(ひゃくたくじ)という

真言宗の寺院があり

別当寺を勤めております。

 

天正17年(1589)に

岩木山は噴火しており

その際に

百沢寺は全焼したそうです。

 

百沢寺は明治4年(1871)まで

別当寺だったようです。

 

この辺については

今後詳しく調べてみたいと思います。

 

岩木山は

当地域の祈りの象徴ともいえる御山で

それ自体が神仏とされます。

 

当地域には

古い時代からの

祈りのあり方を

感じさせられるような

素晴らしい場所が

多いように思います。

 

お不動様お迎え道中覚書③ 禅林街と仏舎利塔(忠霊塔)

現在当山の仏像修復など

色々とお力添え頂いている

弘前の仏師さんのお宅から

車で少しの所に

禅林街(ぜんりんがい)があります。

 

弘前藩2代藩主

信牧(のぶひら)公が

慶長15年(1610)に

弘前城の裏鬼門(南西の位置)の砦として

津軽一円の主要寺院を

この場所に集めたそうです。

※参考ページ(弘前観光コンベンション協会)

https://www.hirosaki-kanko.or.jp/web/details.html?id=API00100002205

 

曹洞宗寺院三十三カ寺が

整然と建立されます。

 

余談ですが

信牧(のぶひら)公は

同年(慶長15年(1610))に

石田三成の娘である辰姫を

妻として迎えられております。

 

禅林街の長勝寺に隣接する場所に

仏舎利塔(忠霊塔)があります。

 

青森県歴史観光案内所のページによると

この塔は昭和20年(1945)に完成し

太平洋戦争敗戦後の連合国占領下の時期に

各地の忠霊塔は軍国主義を象徴するとして

各地の忠霊塔が壊されましたが

弘前は「忠」の字を外し「霊塔」として

存続が認められたそうです。

 

昭和23年(1948)には

タイから送られた仏舎利が納められ

仏舎利塔に名称が変えられております。

※参考ページ(青森県歴史観光案内所)

https://www.aotabi.com/ao/hirosaki/butu.html

 

塔の「忠霊塔」の文字の上に

連なる梵字は「バク」という字で

釈迦如来の種字です。

 

仏舎利塔(忠霊塔)近くには

弘前陸軍の合葬墓もあり

戦争の歴史を今に伝えます。

 

この場所からも

津軽富士こと岩木山の

美しい姿を眺められました。