花巻の清水寺

花巻にございます

音羽山 清水寺(おとわさん きよみずでら)。

 

花巻にて研修会があった際に

お参りさせて頂きました。

 

京都、播磨(はりま、現在の兵庫)と

こちらの清水寺を

日本三清水」というそうです。

 

清水寺といえば

坂上田村麻呂将軍です。

 

花巻の清水寺は

大同2年(807年)に

田村将軍により創建されたと

伝えられます。

 

また慈覚大師の伝説も

伝えられる古刹です。

 

境内には

本堂と庫裏(くり)

観音堂

山門

毘沙門堂

薬師堂など

多くのお堂が並びます。

 

とても立派な伽藍の

御寺院様です。

 

本堂の隣にある観音堂には

十一面観音が祀られます。

 

観音堂本尊の

十一面観音は秘仏ですが

お前立ちとして

大きな十一面観音が

お祀りされております。

 

田村将軍は

十一面観音と関わりのある方で

東北各地にその伝説が残っております。

 

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺の

霊験譚を伝える

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

という古い書物にも

田村将軍のエピソードが

掲載されております。

 

当山の前身である永福寺は

奥州六観音の1つとして

七崎田村の里に

田村将軍が十一面観音を

祀ったことで創建されたと

伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

修行したとされますが

その伝説の最も古いものとされる

お話が掲載されている

室町期の『三国伝記』という書物は

京都の清水寺にて

インドと中国の日本の三者が

観音への法楽(ほうらく)として

輪番でお話をしていくという

筋書きのものです。

 

花巻には由緒ある

寺社仏閣が多くあります。

 

神仏が連なるものとして

お祀りされていた時代の

祈りの形が垣間見られる所が

多く残されているように思います。

 

当山の観音様(七崎観音)は

本堂内の観音堂に

お祀りされますが

かつては本堂とは別の

観音堂にお祀りされていたものです。

 

その観音堂は

七崎山 徳楽寺として

現在の七崎神社の地に

明治時代まであり

当山が別当をつとめておりました。

 

かつては観音堂であったり

何らかの尊格が祀られるお堂が

明治に神社になったり

統廃合されたりすることが

東北でも多く見られます。

 

当山でも

観音堂(七崎山 徳楽寺)が

七崎神社に改められ

七崎観音(聖観音)は本堂内に

お迎えされることになりました。

 

ですが

こちらの清水寺の伽藍は

古い時代の配置を

とどめている部分が多く

今に伝えるものが

多いように思います。

 

▼花巻 音羽山 清水寺HP

http://kiyomizudera.org

 

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南祖坊伝説の諸相⑤ 長谷寺と南祖坊 その参

当山には十和田湖

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

伝えられます。

 

“最古の十和田湖伝説”とされるのは

室町期の『三国伝記』所収の

「釈難蔵得不生不滅事」の

エピソードです。

 

『三国伝記』という書物は

十一面観音をはじめ

長谷寺の影響が

色濃く見られます。

 

この点につきましては

これまでにもブログで

紹介させて頂いております。

 

南祖坊伝説(十和田湖伝説)は

南部藩領を中心に

広く親しまれ

信仰においても

少なからず影響を与えたことが

様々な文書や

各地に残る石碑や神社などから

うかがい知ることが出来ます。

 

この伝説の発信拠点となったのは

七崎(現在の豊崎町)とされます。

 

当山の前身である永福寺が

殊に深く関わっております。

 

この永福寺は

小池坊(長谷寺)の末寺です。

 

前々回と前回は

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』

という両著作の記述に触れながら

長谷寺との関係を

見てまいりました。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

は天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文で

ここでは先に触れた

『三国伝記』の「釈難蔵得不生不滅事」

を紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

から約20年経った後の

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらでは幾つかの

南祖坊伝説が紹介されます。

 

まず初めに『三国伝記』の

伝説が記述されるのですが

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

での内容とは異なっております。

 

跡形もなく変化している

というわけではありませんが

“重要な舞台”が

熊野ではなく泊瀬(長谷)に

変化しているのです。

 

この変化の意味する所を

永福寺と長谷寺の

本末関係や歴史的背景を踏まえ

紐解こうと試みたのが

前々回と前回の投稿です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音という尊格です。

 

長谷寺の十一面観音は

右手に錫杖(しゃくじょう)

左手に瓶(びょう)を執り

大盤石(ばんじゃく)という

台座に立つ尊容で

長谷式・長谷型といわれます。

 

東国(関東)や東北においても

十一面観音は

古くから信仰されたようです。

 

当山の前身である永福寺も

本尊は十一面観音です。

 

東日本で長谷寺といえば

鎌倉の長谷寺が有名ですが

この鎌倉の長谷寺も

奈良の長谷寺と関わりがあり

この両長谷寺は「姉妹」とも

いわれます。

 

鎌倉の長谷寺の本尊は

奈良の長谷寺と同じ

長谷式の十一面観音です。

 

伝承によれば

奈良の長谷寺の本尊を

造立する際に用いた霊木(楠)と

同じものを海に解き放ち

それが流れ着いた場所に

同じ本尊を建立しようとしたそうです。

 

そして流れ着いた先が

鎌倉であったとされます。

 

また海に流したのは

霊木(楠)ではなく

奈良の長谷寺と同じく彫られた

十一面観音像であったともいわれます。

 

そういった伝承があるがゆえに

奈良と鎌倉の長谷寺は“姉妹”と

いわれるのです。

 

奈良の長谷寺に対して

鎌倉の長谷寺は新長谷寺ともいわれます。

 

東国(関東)において

鎌倉は密教の一大拠点の1つです。

 

鎌倉ついででいえば

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺の三学山は

鎌倉の密教を考える上で

重要な寺院となるようです。

 

青森県で最古の仏像は

三戸郡南部町にございます

蓮台山恵光院(けいこういん)の

観音堂にお祀りされる

十一面観音立像で

平安時代のものとされます。

 

恵光院は通称・長谷寺と呼ばれますが

かつては蓮台山長谷寺という

とても古くからある寺院で

盛岡永福寺の末寺として

盛岡に改められることとなり

その旧地を継承したお寺です。

 

かなり古くから

十一面観音や長谷の信仰が

伝わっていたことを

今に伝えているように思います。

 

長谷寺と名のつくお寺の大部分は

鎌倉の長谷寺もそうですが

奈良の長谷寺にその起源があります。

 

長谷寺をキーワードに

話がかなり膨らんできたので

今回はこの辺で

終わりにしたいと思います。

 

江戸期においては

永福寺が小池坊(長谷寺)末寺で

あることが文書に明記されるのですが

それ以前について詳細は分かりません。

 

ただ長谷信仰や十一面観音の信仰が

とても古くから関東にとどまらず

東北にも伝わっていたようなので

伝説や信仰を考える上で

興味深い要素かと思います。

 

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鋭い寒さに

ここ数日は

かなり厳しく冷え込みました。

 

本年は寒暖差が大きいせいか

本日はご法事のお勤め中も

鼻水が止まらず

どうやら風邪気味のようです。

 

時間の経過とともに

体調が優れなくなり

午後は休養をとりました。

 

よく寝て

よく食べて

早く回復したいと思います。

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南祖坊伝説の諸相④ 長谷寺と南祖坊 その弐

前回の「南祖坊伝説の諸相③」では

紀行家である菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』(1788年)

『十曲湖(とわだのうみ)』(1807年)

という著作に触れられる

南祖坊伝説の明らかな変化として

南祖坊と長谷寺が

関係づけられていることを見ました。

 

※前回はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相③/

 

南祖坊と長谷寺が

関係づけられることは

永福寺が小池坊の末寺

つまり奈良県桜井市の

長谷寺の末寺であることと

深く関わるといえるでしょう。

 

伝説や伝承というものは

常に固定的なものではなく

時に見直され

時に教相(教学)や事相(法流や作法)

によって深められ

そして発信され

受容されるものかと思います。

 

江戸時代は

全国のお寺の本末関係が

確立されていく時代であり

その本末関係は全国各地の

人民統制など行政においても

意味を持つものでした。

 

盛岡城の鬼門に

改められた永福寺は

盛岡南部藩筆頭の寺院であり

祈願寺という立場であるのに加え

田舎本寺(いなかほんじ)という

お寺を統括する立場にもあったお寺です。

 

さらには檀林(だんりん)という

僧侶の大学のような場所でもありました。

 

広大な南部藩領における

以上のような

永福寺の様々な役割は

南祖坊伝説のあり方に

影響を与えている部分が

あろうことは容易に想像できます。

 

当山のある豊崎町(かつての七崎)は

永福寺発祥の地ですが

盛岡に永福寺が建立された後も

三戸の嶺松院(れいしょういん)と共に

支配や末寺扱いではなく

「旧地」「自坊」として

区別されて維持されました。

 

これは当山が

南祖坊が修行したとの

伝承があることと

関係があるように思います。

 

話が大分それましたが

長谷寺との関係に

話を戻します。

 

長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といいます。

 

長谷寺は始め東大寺の末寺で

正暦元年(990年)に

興福寺の末寺となります。

 

興福寺は藤原氏の氏神の

春日大社の別当でもあります。

 

長谷寺の本尊は十一面観音で

その脇士として

本尊に向かって右側に

難陀龍王(なんだりゅうおう)が

お祀りされますが

これは春日大明神の化身とされます。

 

藤原氏の関係でいえば

長谷寺の十一面観音造立には

藤原房前が関係しております。

 

ちなみにですが

南祖坊も藤原氏とされます。

 

長谷寺も荒廃した時期があり

それを再興したのが

根来寺の学頭であった

専誉(せんよ)僧正です。

 

専誉僧正は豊臣秀長に招かれ

天正15年(1587年)に長谷寺に

入られます。

 

専誉僧正の住坊を

小池坊中性院といいます。

 

専誉僧正入山以後

長谷寺は新義真言宗の

根本道場となります。

 

徳川時代には厚い庇護を受け

本堂や大講堂や登廊が

再建されます。

 

また専誉僧正が入山以来

“学山”としての性格が明確化され

“長谷学”の名は一世を風靡したそうです。

 

長谷寺は現在でも

真言宗豊山派の総本山で

当山の本山です。

 

江戸期には長谷寺は

様々な宗派の僧侶が集まり

1000人もの修行僧がいたそうです。

 

新義真言宗の

根本道場であることに加え

学山としても

長谷寺が隆盛したのです。

 

長谷寺は古くから

十一面観音の霊験で

有名なお山です。

 

当山の前身である

七崎永福寺の本尊は

十一面観音とされます。

 

盛岡の永福寺は修法本尊として

歓喜天(聖天)がお祀りされますが

内々陣にはその本地として

十一面観音がお祀りされます。

 

最古の十和田湖伝説が収録される

『三国伝記』という書物は

インドと中国と日本の

三者が観音法楽(かんのんほうらく)

つまり観音菩薩に捧げるべく

1人ずつ持ち回りで

お話をするという設定で

その話の中の一話が

最古の十和田湖伝説とされます。

 

『三国伝記』という書物は

長谷寺の影響が指摘されており

この点はとても重要かと思います。

 

十一面観音と南祖坊伝説との関係は

これまで述べられたことが

なかった視点なので

仏道の視点とあわせて

今後も深めていきたいと思います。

 

以上

関連する事柄を

あまり整理することなしに

記してきました。

 

詳細に記すと

膨大になってしまうので

大雑把に紹介させて頂きました。

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空き時間を活用して

昨日の積雪のため

本日予定されていた

当山での御詠歌の会を

休会いたしました。

 

午後は法事の予定があったので

それまでの間

調べ物で用いる資料の

整理を行いました。

 

調べ物というのは

当山の由緒や伝説・伝承

についてです。

 

本堂建替という

歴史的事業に取り組んでいるので

これを機会に

色々と整理をして

有縁の皆様にお伝え出来ればと

考えております。

 

ちなみにですが

本日午前中は

京都の仁和寺(にんなじ)に

かつてあった皆明院(かいみょういん)

というお寺についての資料を

まとめておりました。

 

当山の前身である永福寺は

『邦内郷村志』

『奥南旧記』には

仁和寺皆明院院跡

和州小池坊末寺

と記されております。

 

「和州小池坊末寺」とは

奈良県桜井市の長谷寺の末寺

であったということです。

 

小池坊とは

長谷寺の本坊(ほんぼう)で

長谷寺内の筆頭寺院のことだと

お考え頂ければ結構です。

 

仁和寺には

約80もの院家(いんげ)と

称されるお寺がありました。

 

それらは皆

皇族や貴族の方が

出家されて

入られた所でもあります。

 

その中に皆明院というお寺もあり

永福寺と関係がありました。

 

それがどのような背景の中での

関係であるかについてまで

触れると長くなるのですが

地方の有力寺院が

皇族や貴族ゆかりの

門跡(もんぜき)寺院と

関わりを持つことを

院家兼帯(いんげけんたい)といい

江戸時代に盛んだったようです。

 

色々と複雑な事情がありますし

専門的な部分でもあるので

あまり深掘りはしません。

 

何事もそうだと思いますが

調べや学びを進めていると

いくらやってもきりがない程

広く深いものを感じます。

 

だからこそ

続けられるのだと思います。

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雪の風情

本日は八戸を会場に

東北3県(青森・岩手・秋田)の

同宗派の御寺院様方が集まり

講習会が開催されました。

 

今回の講習会は

戒名についての

ご講義でしたが

とても深い学びとなりました。

 

講習会を終え

当山へ向けて

車で市内を出発したのが

午後9時頃でしたが

重い湿気のある雪が一気に積もり

道路が悪路と化しておりました。

 

どうにか当山に

たどり着きましたが

雪道の運転だったため

余計に疲れたように感じます。

 

明日は除雪が必要そうです。

 

除雪を心配する一方で

真っ白な雪化粧をまとった境内には

風情を感じます。

 

雪の境内は

実に綺麗なものです。

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地域差を感じながら

御詠歌の詠秀(しはん)の研修と

現代教化研究所の所内会のため

上京してまいりました。

 

東京は紅葉が見頃なようです。

 

季節感の違いを

感じながら

充実した研鑽を

させて頂きました。

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春のような師走の1日

北国の12月とは思えない程の

温かな1日となりました。

 

八戸でも20度近くまで

気温が上がりました。

 

ここ数日は

年末年始の諸会議の

日程調整をしております。

 

年末のお寺は

事務的作業が非常に多いのです。

 

とりあえず

年末の会計監査の

ご案内が終わり

少しホッとしております。

 

当山では

年始に役員総会が開催されます。

 

1年で最も大切な会議です。

 

各種会計報告に加え

本堂建替事業についての協議もあるので

内容の濃い会議になろうかと思います。

 

充実した会議になるよう

準備を十分に行いたいと思います。

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「そだねー」

本年の流行語大賞は

冬季オリンピック

カーリング女子日本代表の

「そだねー」となりました。

 

立て続いての災害の

印象が強い一年でしたが

そういえば

今年は熱い熱い

冬季オリンピックが

あったということが

改めて思い出されました。

 

日々の研鑽の積み重ねによる

洗練された技に

多くの人が感動したことは

仏道でいえば

まさに自利利他(じりりた)

という言葉に

重なるように思います。

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意味合いを大切に

人は誰しもが

いつの日か

その歩みを“全うする”

その時を迎えます。

 

本年も色々な

出会いがある一方で

様々なお別れがありました。

 

命のお歩みの物語に

優劣はありません。

 

ご供養でいえば

本年も沢山の方と

ご法事等も

ご一緒させて頂きました。

 

思い出される笑顔やお言葉。

 

思い出されるお声や仕草。

 

「思い出される」その時

確かに私達の中で

その方は“生きている”のだと

思います。

 

色々なことを通じて

生きていくということは

本当に難しいことだと

本年は強く感じさせられました。

 

それは“生きづらさ”とも

いえるかもしれません。

 

“生きづらい”時代において

ご供養のみならず

伝統ある諸事が持つ

本質的な意味合いを

大切にすべきであると

強く感じております。

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