お寺には
ご法事や様々な節目にあたり
お供物がお供えされます。
そのお供物を
「おさがり」として
「おすそわけ」する活動である
おてらおやつクラブに
当山も携わらせて頂いております。
本年最後の発送作業を行いました。
当山有縁の方々が
思いを託して捧げられたお供物が
「おすそわけ」として
届けられるその先にて
お喜び頂ければ幸いです。
▼おてらおやつクラブ
お寺には
ご法事や様々な節目にあたり
お供物がお供えされます。
そのお供物を
「おさがり」として
「おすそわけ」する活動である
おてらおやつクラブに
当山も携わらせて頂いております。
本年最後の発送作業を行いました。
当山有縁の方々が
思いを託して捧げられたお供物が
「おすそわけ」として
届けられるその先にて
お喜び頂ければ幸いです。
▼おてらおやつクラブ
当山本堂は文化7年(1810)に
火災に見舞われ
翌文化8年(1811)に
再建されました。
当山本尊である
愛染明王(あいぜんみょうおう)
の御仏像は火災にあった後に
当時の当山本坊である
盛岡永福寺 宥瑗(ゆうえん)法印
より寄附されたものです。
愛染明王像の光背(こうはい)には
朱書で志趣が以下のように
記されております。
寶照山普賢院本尊新造立志趣者奉為
大守公御武運長久国家安穏及護持宥瑗
法運長遠院内繁昌也敬白
文化七歳次庚午九月大祥日教道覺宥代
寶珠盛岡山永福密寺現住法印宥瑗寄附之
本尊はいうまでもなく
当山にて最も大切な尊格です。
造立されて200年以上になりますが
今もなおそのご威光が
放たれております。
『永福寺物語』(昭和22年、山岸郷友会)
という冊子によれば
当山の前身である永福寺では
毎年4月(現在の5月?)に
南祖坊護摩供養会
(なんそのぼうごまくようえ)
が行われていたそうです。
江戸期に永福寺は盛岡に
拠点を構えることになりますが
以後も十和田湖伝説に登場する
十和田湖の龍神(青龍大権現)
でもある南祖坊は
篤く信仰されたようです。
毎年厳修されていたという
南祖坊護摩供養会当日の
護摩の時間になると
不思議なことに必ず
大風雨が起こったと
伝えられます。
この大風雨は
南祖坊が永福寺に来たことを
示すものでもあり
護摩の法会が終わると
風雨は止んで晴れたそうです。
そして南祖坊はお土産として
大蛇のコケ(鱗)を3枚ずつ
置いていったといわれます。
明治時代の廃仏毀釈の嵐が
吹き荒れる中
盛岡永福寺は東坊(普賢院)を残し
廃寺に追い込まれます。
様々な困難がありながらも
昭和17年に再興を遂げ
かつての東坊の地に建立されたのが
現在の盛岡にある永福寺です。
その再興にご尽力された
当時のご住職である熊谷道安師は
南祖坊大遠忌護摩供養会
(だいおんきごまくようえ)
を執り行いました。
当日は絶好の春日和で
快晴だった所
護摩の時間になると
“大風雨”に見舞われましたが
約2時間後には再び晴れたそうです。
「約2時間後」というのは
護摩供養会が終わって後
という意味だと思います。
実際に護摩の作法は
当山や盛岡永福寺が用いる法流の
次第通りに全てお勤めすると
約2時間かかります。
護摩(ごま)というのは
密教ではとても大切なもので
その起源は古代インドに遡ります。
護摩は日本でも古くから
ご祈祷の際に厳修されております。
余談ですが
現在当山の観音堂内に
お祀りされている
南祖坊の御像である
南祖法師(なんそほっし)尊像は
とても黒いお姿をしております。
当山住職によれば
これは護摩が何度もお勤めされた
ためだろうとのことです。
おそらくその通りだと思われます。
南祖坊にまつわる法要や法会は
他の文書にも見られますが
細かな検討や紹介は
日を改めさせて頂きます。
南祖坊の来臨・降臨は
大風雨とともになされる。
そして大蛇のコケ(鱗)を
3枚ずつ置いていく。
今回はコケ(鱗)のお土産
というエピソードを
南祖坊伝説の諸相の1つとして
紹介させて頂きました。
▼盛岡永福寺に建つ青龍大権現の碑
18日は観音様の縁日です。
12月の縁日は
その年の最後の縁日なので
12月18日を
「納めの観音」
といいます。
当山観音堂の観音様は
糠部三十三観音霊場
第15番札所の観音様で
七崎観音(ならさきかんのん)
といわれます。
もともとは
現在の七崎神社の地にあった
観音堂(七崎山 徳楽寺)に
お祀りされていましたが
明治の神仏分離の際に
当山に遷座されました。
七崎観音は
聖(正)観音(しょうかんのん)
という観音様です。
七崎(現在の豊崎)は
観音の聖地として
篤く信仰された場所でした。
現在当山本堂内の観音堂に
お祀りされる七崎観音
(徳楽寺観音)は秘仏で
年に一度だけ
旧暦1月17日にのみ
御開帳されます。
平成31年は2月21日に
御開帳され御宝前にて
護摩法要が厳修されます。
この行事は詳らかには
聖観音おこもり護摩法要
といいますが
通称「おこもり」といいます。
当山では現在進行形で
本堂建替事業に取り組んでおり
近い将来(来年か再来年)
現在の本堂は
取り壊されることになります。
そういった事情もあり
現在の本堂で行われる
最後の「おこもり」に
なるかもしれません。
諸行無常の理を
強く感じながら
平成最後の「おこもり」に
思いを巡らせる
平成最後の納めの観音の
1日となりました。
拙僧(副住職)が所属する
総合研究院という研究機関の
会議と研修会のため
本年最後の日帰り上京を
してまいりました。
研修会では
真言宗豊山派の宗門大学を
本年退官された先生に
「新義真言宗の成立」について
平安時代からの展開を
ご講義頂きました。
今でこそ宗派という概念が
一般的になっておりますが
江戸幕府成立以前は
今のような宗団意識よりも
個々のお寺という意識が強く
歴史を紐解く上では
この「宗」の捉え方は
注意を払う必要を再確認しました。
歴史的なことなどを
叙述するにあたり
真言宗や天台宗などという
言葉はある意味便利で
使い勝手の良いものですが
その意味する所は
今の感覚とは異なるものです。
全ての宗派の歴史を
丁寧に網羅することは
至難の業ですが
自宗については
いくら複雑な経緯があるとはいえ
出来る限り把握したいと思いました。
正月のしめ飾りや
七五三縄(しめなわ)を
買ってきました。
最近はどこに行っても
年末の雰囲気が
強く感じられるように
なってまいりました。
大掃除に
来年初頭に檀家の皆様に
配布する諸々の書類作成や
お寺の役員の皆様との
会議資料の作成や
年末年始の行事の準備やら
あげれば次々と
浮かんできます。
さてさて
どれから手を付ければ
良いのやらという感じですが
心にゆとりをもちつつ
取り組みたいと思います。
宝暦年間(1751〜1764)の
『御領分社堂』の
修験持の社堂をまとめた巻に
以下のような記述があります。
十和田銀山
一 山神宮 同
往古南蔵坊を
祝候由申伝候
(いわいそうろうよし
もうしつたえそうろう)
ここでの「祝」は
「お祀りする」「祈りを捧げる」
といった意味合いです。
祝詞(のりと)という単語での
「祝」も同じ意味です。
十和田銀山の山神宮は
往古(その昔)に
南祖坊(南蔵坊)がお祀りされ
祈りが捧げられたということが
『御領分社堂』には
記されております。
山神の眷属(けんぞく)は
「お犬さま」とも呼ばれ
狼とされます。
“狼の神”が
「三峯(みつみね)さま」
とも呼ばれることは
柳田國男の『遠野物語拾遺』でも
とりあげられております。
三峯という言葉は
埼玉県秩父の三峯神社に由来します。
この三峯神社が
「お犬さま」や「三峯さま」と呼ばれる
眷属の信仰を各地に広めたといわれます。
奥州市衣川の三峯神社は
享保元年(1716)に秩父の三峯神社から
勧請(かんじょう)したと伝えられます。
県内でも
山の神が祀られ
参道に阿吽の狼が
祀られる所をご存知の方も
多いのではないでしょうか。
山神は
山の神
山ノ神
山之神とも表記します。
東北では
古い猟法に則り
狩猟を行うマタギが
山の神を篤く信仰したそうです。
マタギの伝書に
『山立根本巻』
(やまだちこんぽんのまき)
というものがあります。
『山立根本巻』は
マタギが神仏が司る聖地でもある
お山において
狩猟(殺生)を行うことを
山の神が認可したという
マタギの狩猟の由緒が
記されるものです。
こういった伝書は
様々あるそうです。
マタギに関連する文書には
様々な作法や経文や
真言陀羅尼(だらに)が
多く記されており
神仏への祈りが
大切にされていたことが
伝わってまいります。
十和田湖伝説に登場する
八郎(八の太郎、八郎太郎)は
マタギであるとの
いわれもあります。
全国的なものかどうかは
存じ上げませんが
山神
山の神などと
刻まれたり
書かれた石碑や石が
東北では
寺社仏閣の境内に建てられたり
納められている所が
多く見られます。
当山にも
大きくはありませんが
石が納められております。
山が身近な地域でもあるので
山の神はとても
身近だったのだと思います。
今回は
『御領分社堂』に記される
十和田銀山の山神宮に触れ
山神として祀られた
南祖坊を伝説の諸相の1つとして
紹介させて頂きました。
▼山神の碑(花巻市 光勝寺 五大堂裏手)
▼以下、岩手県立博物館の企画展の写真
今年の12月は
よく雪が降ります。
昨年の今頃は
大したことがなかったので
本年も楽観視していたのですが
本当によく降ります。
今朝も降雪により
壮観な銀世界が
広がっておりました。
幻想的でもあった
今朝の風景を
お届けいたします。
先日、花巻に赴いた際に
花巻温泉から清水寺を
目指して車を走らせていた道中で
ふと気になって立ち寄ったお堂には
寶龍大権現(ほうりょうだいごんげん)
という龍神がお祀りされておりました。
案内板によると
文政4年(1821)に
肝煎(きもいり)をつとめた
地元の方により建立されたそうです。
寶龍大権現は
観音菩薩を本地としているようで
水不足に悩む地域一帯の
発展への祈願が
託されたようで
今もなお当地の
安寧を見守っているようです。
真言宗豊山派(ぶざんは)では
弘法大師(こうぼうだいし)
空海(くうかい)上人と
興教大師(こうぎょうだいし)
覚鑁(かくばん)上人が
「両祖大師」として
お祀りされます。
当山本堂では
内陣の須弥壇に向かって
左方奥にお祀りされております。
弘法大師を宗祖(しゅうそ)
興教大師を中興祖(ちゅうこうそ)
と尊称します。
お二方とも
平安時代の方です。
12/12は
興教大師のご命日です。
平成最後の12/12は
雪の舞う1日となりました。
興教大師は
“内観の聖者”ともよばれます。
興教大師の著された
『密厳院発露懺悔の文』
(みつごんいんほっろさんげのもん)
という文書が
豊山派の常用経典という
大切なお経が収録された経本にも
収められておりますが
そこには人の心の
本質を見つめられた
上人の思いが
詰め込まれているように感じます。
密厳院発露懺悔の文
我等懺悔(さんげ)す
無始よりこのかた
妄想(もうぞう)に纏(まと)われて
衆罪(しゅざい)を造る
身口意業(しんくいごう)
常に顛倒(てんどう)して
誤って無量不善の業(ごう)を犯す
珍財を慳悋(けんりん)して
施を行ぜず
意(こころ)に任せて
放逸(ほういつ)にして戒を持せず
屢々(しばしば)忿恚(ふんに)
を起して忍辱(にんにく)ならず
多く懈怠(げだい)を
生じて精進ならず
心意(しんに)散乱して坐禅せず
實相に違背して慧(え)を修せず
恒に是の如くの六度の行を退して
還って流転(るでん)三途の業を作る
名を比丘に假(か)って
伽藍(がらん)を穢し
形を沙門に比して信施を受く
受くる所の戒品(かいほん)な
忘れて持せず
学すべき律義は廃して好むこと無し
諸佛の厭悪(えんの)したもう
所を慚(は)じず
菩薩の苦悩する所を畏れず
遊戯笑語(ゆうげしょうご)して
徒(いた)ずらに年を送り
諂誑詐欺(てんのうさぎ)して
空しく日を過ぐ
善友(ぜんにゅう)に随わずして
癡人(ちにん)に親しみ
善根(ぜんごん)を
勤めずして悪行を営む
利養を得んと欲して自徳を讃じ
勝徳(しょうど)の者を見ては
嫉妬を懐く
卑賤(ひせん)の人を見ては
驕慢(きょうまん)を生じ
富饒(ぶしょう)の所を
聞いては希望(けもう)を起す
貧乏(ひんぼう)の類(るい)を
聞いては常に厭離(おんり)す
故(ことさ)らに殺し
誤って殺す有情(うじょう)の命
顕(あら)わに取り
密かに盗る他人の財
触れても触れずしても
非凡行(ひぼんぎょう)を犯す
口四意(くしい)
三互(さんたがい)に相続し
佛を観念する時は
攀縁(へんねん)を発(おこ)し
経を読誦する時は
文句を錯(あや)まる
若し善根を作(な)せば
有相(うそう)に住し
還って
輪廻生死(りんねしょうじ)の
因と成る
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)
知ると知らざると
犯す所の是(かく)の如くの
無量の罪
今三寶に對して
皆発露(ほっろ)したてまつる
慈悲哀愍(じひあいみん)して
消除(しょうじょ)せしめたまえ
皆悉(ことごと)く
発露(ほっろ)し盡(ことごと)く
懺悔(さんげ)したてまつる
乃至(ないし)法界の
諸(もろもろ)の衆生
三業所作の是(かく)の如くの罪
我皆相代って盡(ことごと)く
懺悔(さんげ)したてまつる
更に亦(また)其の報いを
受けしめたまわざれ