稀代の古刹 七崎観音⑦

当山本堂内の観音堂本尊として

祀られる聖観音は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安初期にまで

さかのぼるとされます。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日に御開帳し

御宝前にて護摩法要が厳修されます。

 

本年は2月21日が御開帳となります。

▼護摩法要の詳細はコチラ

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

七崎観音は明治になるまで

現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされておりました。

 

旧・観音堂には

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺号(じごう)がありました。

 

補足ですが

諸尊格のお堂に寺号(じごう)が

用いられる例は他所にも見られます。

 

「毛馬内 三大日」といわれた

毛馬内の三つの大日堂は

それぞれ寺号が用いられており

小豆沢村大日堂は養老山 喜徳寺

長牛村大日堂は長牛山 仁両寺

毛馬内村大日堂は福生山 中台寺

という寺号が用いられております。

 

毛馬内でいえば

不動院が別当をつとめた

舘神宮は玉崎山 金光寺の寺号が

用いられております。

 

田子でも観音堂に

蟹沢山 宣王寺の寺号が

用いられておりますし

こういった例は他にも多く見られます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をになっております。

 

当山を開創した

圓鏡(えんきょう)大和尚は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化(ごせんげ、高僧の逝去の意)

と過去帳に記されますので

かなり古い時代から当山と七崎観音は

深く関わっているのだと思います。

 

当地である豊崎町は

かつて七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

現在でも「永福寺」と「七崎」の

地名が残っており

地域とともに歴史が紡がれてきたことを

今に伝えているように感じます。

 

地名でいうと

「南宗(祖)坊」(なんそのぼう)

という地名も豊崎には

残っております。

 

南祖坊とは

十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山に弟子入りして

全国を巡った末に

十和田湖に入定(にゅうじょう)し

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という龍神になったとされる方です。

 

「南宗(祖)坊」には

南祖坊という坊舎(お寺)が

あったのではないかとも

いわれております。

 

「南宗(祖)坊」は

当山と滝谷(たきや)地区の

ほぼ中間に位置する場所です。

 

滝谷には天満宮がありますが

かつては十和田山参詣の際には

滝谷の天満様に立ち寄ってから

十和田山へ向かったそうです。

 

豊崎町は現在の町名が示す如くに

「豊かな土のふるさと」

(豊崎小学校校歌の一節でもあります)

であると共に伝承・伝説に彩られた

とても由緒ある素晴らしい

地域であると拙僧(副住職)は

誇りに思っております。

 

全国各所に赴かせて頂くことが

多い拙僧(副住職)からしても

当地はどこにも引けを取らない

魅力にあふれていると

胸を張って言うことが出来ます。

 

さて今回は近世の史料を一助とし

旧・観音堂(七崎観音)を含めた

かつての七崎について

見ていきたいと思います。

 

宝暦13年(1763)のもので

盛岡南部藩領の社堂についての

調査書である

『御領分社堂』という書物があります。

 

『御領分社堂』は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された調査が

広範囲にわたり丁寧に

なされたということが

伝わってくるような書物です。

 

七崎についても

当時の主な社堂が

旧・観音堂(現・七崎神社)を含め

同書に以下のように

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

とても多く神仏が

お祀りされていたことが

分かると思います。

 

大日如来と

不動・愛染の両明王が

お祀りされる小社(お堂)が

あったと記されますが

拙僧(副住職)からすると

この部分には深秘(じんぴ)な

意味を感じます。

 

『御領分社堂』では

七崎の観音堂が

2つ紹介されております。

 

1つは旧・観音堂のことですが

もう1つは当山所蔵の

棟札等を踏まえると

千手千眼観音観堂(以下、千手観音堂)

のことだと思われます。

 

史料によれば

一間四方のお堂だったようです。

 

現在の当山本堂は

文化8年(1811)に再建されており

その当時は覚宥(かくゆう)大和尚が

普賢院を担っておりました。

 

当山に残る

千手観音堂再興の棟札(むなふだ)には

この覚宥大和尚の名が記されているので

江戸期までは千手観音堂が

再建を繰り返しながら

維持されていたことが分かります。

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千手観音堂にどの仏像が

納められていたかは分かりませんが

当山に祀られる千手観音の1体を

紹介させて頂きます。

 

以下がその写真となります。

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ご覧の通り

とても古い仏像で

お顔の上にも多くのお顔があり

仏像両側面には

千手観音の腕が

差し込まれていたと考えられる

無数の穴があります。

 

この千手観音は

田子出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)

彫ったものであることが

つい先日判明いたしました。

 

千手観音に加え

不動明王像の中にも

奇峯学秀作のものがあることが

判明いたしました▼

https://fugenin643.com/blog/奇峯学秀(きほうがくしゅう)の仏像が発見/

 

ついでになりますが

当山観音堂には

八体仏(はったいぶつ)という

十二支の守護尊がお祀りされ

その中にも千手観音が

入っておりまして

この八体仏は

弘化年間(1844〜1848)に

作られております。

 

先の引用文には

修験についても紹介されているので

最後にこのことにも触れたいと思います。

 

『御領分社堂』では

四人の修験者が記され

「本山派」であるとされます。

 

『七崎神社誌』では

七崎の修験は「真言宗なり」とあり

記述に矛盾を感じられる方が

いらっしゃるかと思いますが

ここに現代とは異なる

かつての“宗派性”を

読み解くことが出来ると思います。

 

修験者としての認可を

本山派(天台系修験)で授かり

作法などは当山派(真言系修験)の

伝授が出来る寺院

あるいは阿闍梨に授かるといったことは

決して珍しいことではありません。

 

参考までにですが

当山の本山である

奈良県の長谷寺は

学山(がくさん)として非常に栄え

宗派を問わず多くの学僧が

各地より集ったお山でした。

 

七崎(現在の豊崎)も

垣根をこえて

様々な方が各所より集われた

魅力ある地域だったと思います。

 

▼当山より南方方向

 ※当山と七崎山のその先には

   名久井岳が位置します。

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▼観音橋上空から見た南方

※当山と七崎山の奥に見える

   大きな山が名久井岳です。

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▼当山より真東方向

 ※その先には海が広がり

  蕪島(かぶしま)が位置します。

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▼当山より西方

 ※ずっと先には戸来(へらい)岳や

   十和田湖があります。

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▼当山より北方

 ※ずっと先には小川原湖があります。

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