本山のアルバム

6/7に参拝した

総本山長谷寺での

フォトアルバムです。

 

木造では日本一大きな

本尊・十一面観音や

観音堂内部など

撮影禁止エリアも多くあるので

ご紹介出来るのは一部だけですが

それでも長谷寺には

見どころがかなり多いです。

 

今回のような

団参の機会が

今後あるか分かりませんが

奈良方面に行く機会がありましたら

長谷寺にもぜひご参詣下さいませ。

 

仏像の修繕と造立を振り返る

平成29年より6年計画で

本格的に始動した本堂建替事業では

多くのご協力のおかげで

主要なお仏像の修繕や造立も

行うことが叶いました。

 

当山は歴史が古いということもあり

とても多くの由緒ある

お仏像がお祀りされており

“見どころ”でもあります。

 

振り返りの意味もあり

お仏像の修繕や造立について

以下に簡単にまとめてみました。

 

今回は紹介出来ませんが

ひとつひとつに

エピソードがあります。

 

色々な方の

切実な願いが込められているものもあり

これまでの経緯を振り返ることで

そういったお心と

また向き合わせていただいたように思います。

 

①本尊・愛染明王

  • 江戸期の当山本坊(宝珠盛岡山永福寺)住職・宥瑗(ゆうえん)により文化7年(1810)奉納
  • 故・哘啓造(さそうけいぞう)氏のご寄進により、この度修繕

 

 

②普賢菩薩

  • 造立年代不明
  • 昭和4年(1929)に修繕し彩色が改められるも、経年劣化が著しかったため、この度修繕
  • 新本堂では本尊脇侍(わきじ)として安置

 

 

③十一面観音三尊(長谷式)

  • 造立施主(匿名希望)のご寄進により作仏
  • 当山の本尊はもともと十一面観音とされる
  • 総本山長谷寺の本尊と同形式で作仏
  • 新本堂では本尊脇侍として安置

 

 

④本 七崎観音(もとならさきかんのん)

  • 明暦元年(1655)南部重直公により奉納
  • こちらの観音像の御前立ちが現在秘仏として祀られる七崎観音(ならさきかんのん、「現 七崎観音」)
  • 破損箇所が多く、各所傷みも激しかったため修繕
  • 新本堂では観音堂内殿に安置

 

 

⑤大日如来

  • 年代不明
  • 蓮台・光背がなかったため、新たに制作
  • 厨子を新調
  • 新本堂では観音堂脇祭壇に安置予定

 

 

⑥不動明王三尊

  • 年代不明
  • 近世の文書によると、江戸期は本尊愛染明王の脇侍として祀られていた
  • 全体的に焼け焦げていた(文化7年[1810]の火災によるもの)
  • 本体の大きさにあわせ台座・光背・持物を新調
  • 脇侍の二童子を新調
  • 新本堂では観音堂脇祭壇に安置

 

 

⑦不動明王

  • 年代不明
  • 近世の文書によると、江戸期は本尊愛染明王の脇侍として祀られていた
  • こちらも全体的に焼け焦げていた(文化7年[1810]の火災によるもの)
  • 本体の大きさにあわせ台座・光背・持物を新調
  • 新本堂では観音堂脇祭壇に安置

 

 

⑧聖徳太子

  • 年代不明
  • 鋳造仏
  • 台座がなく自立出来なかったため、台座を新調

 

 

⑨子安地蔵

  • おいらせ町の旧家より奉納された子安さま
  • 破損箇所が多かったため修繕

 

 

⑩地蔵菩薩

  • 年代不明
  • 仏像のお足元にホゾ穴があり、もともとは台座があったと思われるが本体のみ祀られ、自立出来ない状態だったため台座を新調

 

 

⑪仁王

  • 享保3年(1718)9月に津嶋弥十郎清春が奉納
  • 材質は青森ヒバ
  • 仁王門建替・仁王像修繕・台座新調

浮かび上がる古い聖観音の履歴

2019/8/24のブログで

「大発見かもしれません」の

タイトルで書かせていただきましたが

当山観音堂に祀られる

古い聖観音像の由緒を

紐解くことが出来そうです。

 

▼以前のブログはコチラ

https://fugenin643.com/blog/%e5%a4%a7%e7%99%ba%e8%a6%8b%e3%81%8b%e3%82%82%e3%81%97%e3%82%8c%e3%81%be%e3%81%9b%e3%82%93%e3%80%9c%e6%97%a9%e7%a8%b2%e7%94%b0%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e3%81%a8%e6%99%ae%e8%b3%a2%e9%99%a2%e8%81%96%e8%a6%b3/

 

今回とりあげている

聖観音像は次のものです。

 

観音堂内殿に

お祀りされてきた

こちらの古い聖観音像。

 

少し前までは

とても大きな厨子(ずし)に

お祀りされていたそうですが

傷みが著しかったため

厨子は処分されたそうです。

 

今回の結論を先に述べると

この古い聖観音像は

宥鏡上人が本坊住職の時代である

承応3年(1654)2月から

明暦2年(1656)9月の間に

南部重直公により奉納されたもので

また同時期に

早稲田観音(糠部三十三札所第23番)の

十一面観音も

作仏され奉納されている

と考えられます。

 

この年代は

当山所蔵の観音堂再興棟札に

記さているものでして

観音堂(三間四方)と末社十二宮を

承応3年(1654)2月〜明暦2年(1656)9月

にかけて再興したと

明記されることによります。

 

この時に観音堂に祀られた

観音像が今回話題としている

聖観音だと思われます。

 

この再興というのは

慶安2年(1649)に落雷で

観音堂が焼失したため

なされたものです。

 

棟札が示す観音堂というのは

現在の七崎神社の地にあったもので

徳楽寺という寺号が用いられておりました。

 

徳楽寺は

明治になり廃寺となり

七崎神社にあらためられ

観音様はじめ仏像仏具は

当山本堂へ遷されました。

 

当山観音堂内殿中央には秘仏の

七崎観音(ならさきかんのん)が

安置されており

その隣脇に古い聖観音は

お祀りされておりました。

 

内殿の観音扉は

1年に1度しか開かないため

じっくりとその特徴を

観察することもありませんでしたが

209年ぶりの本堂建替にあたり

数年前から全ての仏像について

細かに調べ直しておりました。

 

そういった経緯があり

いま話題としているお仏像についても

大まかな特徴を

つかんでおりました。

 

そして

昨年たまたま目にしていた

滝尻善英氏の観音霊場の冊子に

掲載されている

早稲田観音の観音像のお姿と

当山に祀られる古い観音像が

とても似ていることに

気がついたのです。

 

早稲田観音を別当として

管理していたのは永福寺です。

 

当山は

開創が平安初期(延暦弘仁年間)

開基が承安元年(1171)ですが

鎌倉〜江戸時代初期は

永福寺の寺号(じごう、お寺の名前)が

主に用いられております。

 

鎌倉時代

永福寺は三戸にも伽藍を

整えており

おそらく三戸の永福寺が

永福寺本坊という

位置づけだったと思われます。

 

江戸初期

盛岡に永福寺本坊が構えられた後は

在地の別当として

自坊(直轄管理する飛び地のお寺)

嶺松院(れいしょういん、明治2年に廃寺)

が早稲田観音を司っております。

 

普賢院も永福寺自坊でして

本坊(盛岡永福寺)住職が

普賢院先師としても

その名を連ねられております。

 

前置きが長くなりましたが

歴史的に密接に関わる

この早稲田観音のお姿を

滝尻氏の本年刊行された

著書からお借りして

紹介させていただき

その後に当山の観音像と

見比べてみたいと思います。

 

 

 

ご覧の通り

細かな造形まで

酷似しているのです。

 

スライドにも

記してある滝尻氏の参考文献では

以下のような記述があります。

 

観音堂に保存されている

万治2(1659)年の棟札には

寛永17(1649)年3月に

門前のたき火が飛び火して

焼失したため

宥鏡法印の代に再興し

本尊も修復したと記されている。

 

このときの肘木には

「早稲田観音堂

南部二十九代(実際は28台)

山城守重直公代

永福寺住持宥鏡再興」とある。

 

滝尻善英2020『奥州南部観音霊場巡り 糠部三十三所』デーリー東北社、p.107。

 

滝尻氏は

早稲田観音は棟札に記される

万治2年(1659)よりも

古いと見られると

同書で述べられております。

 

当山に祀られる観音像と

早稲田観音の類似性と

当山所蔵の観音堂再興棟札と

当山と早稲田観音の歴史的背景を

踏まえると

万治2年(1659)から少しさかのぼる

承応3年(1654)〜明暦2年(1656)に

早稲田観音である十一面観音像は

奉納されたと考えられます。

 

早稲田観音の別当をつとめていた

嶺松院(現在はありません)は

江戸初期〜末期に盛岡永福寺を

当山と同じく本坊としており

密接な関わりのある寺院です。

 

当時の本坊住職である

宥鏡上人は

本山の長谷寺(奈良県桜井市)から

おいでになった方です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音であり

また長谷寺は西国三十三観音霊場の

草創に深く関わるお寺で

“観音信仰の拠点”ともいうべき所です。

 

長谷寺からいらした宥鏡上人は

観音様とご縁の深い方であり

自坊(普賢院と嶺松院)観音堂の

再興にご尽力されていたことは

後世に伝えたい事績といえます。

 

ちなみにですが

今回話題としてきた

聖観音像は修繕のため

現在は“お留守”にされております。

 

今回述べさせていただいたことは

かつて当地に存在し

江戸期には盛岡南部藩の冠寺となる

永福寺の歴史を後世に伝える上で

とても有意義なものであるとともに

地域の交流のきっかけにも

なりうるものだと感じます。

十一面観音に託された除疫への願い

当山の本山は

奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)です。

 

先日

本山より全国の豊山派寺院に

除疫札(じょえきふだ)

除疫守(じょえきまもり)

が送られました。

 

説明によると

かつて疫病が蔓延した時代

それを鎮めるために

仕立てられたもので

長谷寺に古来より伝わる版木を

基に復刻してお加持(かじ)

したものだそうです。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音です。

 

十一面観音は

7世紀末に日本に伝えられ

8世紀になると十一面悔過(けか)

という作法が行われるようになり

広く信仰されるようになった尊格で

古い歴史を持ちます。

 

当山も

もとは十一面観音が

本尊であったと伝えられます。

 

先にご紹介した

御札と御守の袋に掲載されている

説明を再び参照すると

十一面観音には

十種の功徳があり

その第一番目に

離諸疾病(りしょしつびょう)が

謳われているのだそうです。

 

当山では現在

弘前の仏師さんにお願いして

新本堂の本尊脇仏として

お祀りされる十一面観音像を

本山と同じ三尊形式で

彫って頂いております。

 

十一面観音が

もともとの当山本尊との

伝えがあることを踏まえて

作仏をお願いしたのですが

昨今の世界的なウイルス蔓延が

一日も早く平穏な世になるように

との願いも添えて

お祀りさせて頂きたいと思います。

 

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

350px-Hokke_Sesso_Bronze_Plaque_Hasedera

 

この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

IMG_7741

IMG_7907

IMG_7762

IMG_7890

IMG_7906

IMG_7865

IMG_7879

稀代の古刹 七崎観音⑪

当地はかつて

七崎(ならさき)と

呼ばれておりました。

 

この七崎には

かつて当山の前身である

永福寺がありました。

 

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当でもあります。

 

「永福寺」と一言でいっても

その実態は中々複雑かつ複合的でして

現在の当山ような形態とは異なります。

 

昭和期の永福寺住職である

熊谷精海(せいかい)師は

永福寺は江戸時代になり

本坊が盛岡に構えられ

42世住職・清珊(せいさん)の代に

七崎永福寺は普賢院になった

とお話されていたそうで

その伝を当山では踏まえております。

 

今回は

「永福寺」というお寺の名前である

寺号(じごう)について

見ていきたいと思います。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

鎌倉といえば長谷寺を

連想される方が多いと思いますし

東北においてですと

長谷寺と聞くと

鎌倉を連想される方は

とても多いかと思います。

 

奈良と鎌倉の長谷寺は

“姉妹”と言わることがある程

切っても切れぬ

深いご縁で結ばれたお寺です。

 

鎌倉の永福寺に触れる前に

長谷寺について

触れさせて頂きます。

 

奈良の長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といい

朱鳥元(686)年に

修行法師である道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ

開創されました。

 

その後約40年後に

徳道上人が主導されて

十一面観音像

神亀6年(729)に完成し

行基(ぎょうき)を導師として

天平5年(733)に開眼されます。

 

この徳道上人が

長谷寺を開山されました。

 

さて

鎌倉との関係ですが

この十一面観音が

2つの長谷寺をつなぐ

キーポイントになります。

 

奈良の長谷寺の十一面観音像を

彫ったものと同じクスノキ

(十一面観音像との説もあります)

を海に解き放ち

流れついた地に

衆生済度の願いを託して

十一面観音を本尊としたお寺を

造立しようとしたそうです。

 

海に解き放たれた

クスノキ(あるいは十一面観音像)が

流れ着いた先が鎌倉で

そこに長谷寺が建立され

行基により開眼された

というのが奈良と鎌倉の

2つの長谷寺をつなぐ伝説です。

 

鎌倉に話を移しまして

鎌倉の永福寺は源頼朝が

奥州での戦没者供養も兼ね

平泉の大長寿院(二階大堂)を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

『たけたからくり』(文政6年(1823))

によると鎌倉の永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また宥玄は

三戸沖田面村と

五戸七崎村を賜ったと

記されております。

 

同史料では

七崎(ならさき)には

往古より観音堂があり

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

この『たけたからくり』は

江戸後期(文政6年(1823))の

史料なので

その当時において

永福寺縁起がどのように

整えられ編まれていたのかが

よく伺えるように思います。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

『たけたからくり』や

当山の過去帳を踏まえると

「移った」という表現は

当てはまらないように思います。

 

また

同史料でいうところの

観音堂はおそらく七崎観音の

ことを指していると思いますが

永福寺縁起が七崎観音と

強く結び付けられていることも

伺えるかと思います。

 

それだけ

七崎観音は重要な

尊格であったということを

意味するといえます。

 

今見てきたように永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その由緒や縁起が

編まれていくことになります。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

七崎にお寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

この縁起は

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

上巻第5話として収録される

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

根拠となっていると考えられます。

 

永福寺の縁起や創建伝説は

なかなか豊富でして

七崎観音は

実際には聖観音(しょうかんのん)

という観音様なのですが

「七崎観音は田村将軍の十一面観音」

との縁起もあったりします。

 

念のために触れると

縁起といわれるものは

歴史とは似て非なるもので

様々な意味合いがあることを

しっかりと踏まえて

紐解くべきものです。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から当地に留まるよう

懇願されたため草庵が結ばれ

普賢院を開基したと伝えられます。

 

行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星)になぞらえ

杉を植えた上人でもあります。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」というのは

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに由来します。

 

こういった

“永福寺以前”の由緒も

永福寺の由緒として編入され

七崎は永福寺発祥の地となり

とても重要な意味を帯びたわけです。

 

永福寺は江戸時代前期に

平泉の中尊寺から住職が

おいでになられたことがあります。

 

中尊寺は今でこそ天台宗ですが

昔は真言寺院も多くあり

今とは異なる“宗派感覚”や

“宗派交流”があったのです。

 

そういったことも踏まえると

これまで以上にスケールの大きな

歴史が七崎の地を起点としながら

お伝えできるように感じます。

 

当地や周辺の遺跡からも

この地域には縄文時代から

集落があったことや

何かしらの儀礼に用いられたであろう

9世紀〜10世紀頃の古い

祭具(錫杖(しゃくじょう)状鉄製品)が

発掘されております。

 

平泉や鎌倉とも絡めることが出来ますし

古い信仰の歴史を持つ諸観音

地域の諸伝承

十和田湖南祖坊伝説

さらには大日坊との関係や

会津斗南藩(となみはん)のこと

などなど後世に伝えるべきことは

とても多いように感じております。

 

それらの探求を続けることや

後世に託すために形にすることに

情熱を以て取り組みたいとの思いを

常々持っております。

 

 

稀代の古刹と銘打ち

七崎観音を主役として

当山の歴史について

これまで触れてまいりました。

 

当ブログは拙僧(副住職)の

「研究メモ」も兼ねて

投稿することがあるので

読みにくい部分が多かったかと思いますが

少しでもお伝え出来たものが

あったのであれば幸いです。

 

IMG_8733

IMG_4148

IMG_4137

 


【観音堂内陣内殿】

IMG_8699

手前の大きな浄鏡の右側の

観音菩薩立像は

とても古い仏像です。

 

反対側の端正なお姿をした観音菩薩立像は

地元の篤信者である中村元吉氏より

ご奉納頂いたものです。

 

中央奥の厨子(ずし)は

三重になっており

七崎観音(聖観音)が

お祀りされております。

 


【七崎観音(聖観音)】

IMG_8698

第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

身の丈約20センチの

金銅仏(こんどうぶつ)で

とても美しいお姿の御仏像です。

 

ご奉納された当時は

御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

稀代の古刹 七崎観音⑧

七崎(ならさき)とは

現在の八戸市豊崎町の古称です。

 

当山は現在でも

「七崎のお寺さん」と

呼ばれることが多くありますし

「永福寺さん」とも呼ばれます。

 

この七崎の地には

かつて永福寺(当山の前身)があり

多くのお堂を管理する

別当でもありました。

 

当山本堂内の観音堂に

祀られる聖観音は七崎観音と呼ばれ

古くから多くの方に

ご参詣頂いた観音様で

明治以前は現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされていたものです。

 

この観音堂をはじめ

多くのお堂の別当寺を

当山が永福寺時代より担ったようです。

 

現在の八戸市白銀にある

清水観音堂(糠部第6番札所)は

当山が別当寺をつとめたお堂であり

古くから海の方面とも

関わりがあったことが分かります。

 

海に関連する御祈祷の一例として

「舩(船)祈祷」というものがあります。

 

時代が違えども

海に限らず船は

とても重要なものです。

 

当山には舩祈祷の

次第(聖教(しょうぎょう))や

それに関係する文書が幾つか

所蔵されております。

 

船祈祷の聖教(古文書)には

「慶長20年(1615)授与」と

記されたものもあれば

安永5年(1776)の浄写されたものを

寛政6年(1794)に書写されたと

奥書されたものもありますし

実際に用いられた

船祈祷の祈祷札の文言を写した

宝暦13(1763)と寛政4年(1792)との

年代が記された文書も所蔵しております。

 

文政10年の聖教(古文書)もあり

これら船祈祷のものは

いずれも当山61世である

長峻(ちょうしゅん)大和尚が

新潟よりお持ちになられたものです。

 

長峻大和尚は新潟県出身で

ご縁があって当山61世となり

さらには南部町の恵光院(長谷寺)を

第29世(99世ともされます)として兼任され

晩年は山形県鶴岡の湯殿山大日坊も

第88世住職 慈念海上人 忍光道人として

兼任された方です。

 

恵光院の由緒はとても古く

平安期の十一面観音像が祀られ

これは青森県最古のもので

糠部観音第22番札所です。

 

山形県鶴岡の

湯殿山 大日坊(ゆどのさん だいにちぼう)

には即身仏(そくしんぶつ)の

真如海上人(しんにょかいしょうにん)が

お祀りされます。

 

即身仏とは

平たくいえば“僧侶のミイラ”です。

 

拙僧(副住職)の法名は

泰峻(たいしゅん)といいますが

現住職の「泰」の字と

長峻大和尚の「峻」の字を

頂いております。

 

長峻大和尚は

船祈祷の聖教のみならず

非常に多くのものを

当山に請来されております。

 

ほぼ全てが江戸期のものですが

御祈祷はもちろんのこと

どのような作法や次第が

継承され施されていたのかが

垣間見られる貴重なものだと感じます。

 

先に南部町の古刹である恵光院

についても少し触れましたが

恵光院も当山も

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場の札所です。

 

糠部は

「ぬかのぶ、ぬかのべ、ぬかぶ」とも

読みますがここでは

「ぬかべ」として読ませて頂きます。

 

糠部三十三観音霊場

第15番札所は七崎観音です。

 

三十三は「無限」を意味し

尽きることがない

無量の慈悲を表しております。

 

全国各地に「三十三観音」と名のつく

霊場は沢山あるかと思いますが

最古の霊場は西国三十三観音で

その起源は当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺にあります。

 

養老2年(718)に

長谷寺の徳道(とくどう)上人が

病床にみた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かり

衆生救済のため観音霊場を作るよう

告げられたとの開創伝説が伝えられます。

 

徳道上人は三十三所を定めたものの

機運が熟さなかったため

宝印を中山寺に納め

それから約270年経った後に

花山法皇により復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山ついででいうと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立します。

 

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです

(山崎武雄1980

「糠部三十三所観音巡礼(一)」

『天台寺研究』pp.60-117。)。

 

永正9年(1512)9月

観光上人によって成立した霊場です。

 

観光上人御選定の札所番数は

現行の番数とは異なっており

その詳細は一部しか

分からないようですが

1番札所が天台寺(現在は33番)で

33番札所が恵光院(現在は22番)です。

 

観光上人の「観光」という

言葉についても

少し触れさせて頂きます。

 

観光といえば各所に赴く

旅行や行楽といったニュアンスがある

言葉として定着しておりますが

一説によると

音のを頂きに行くこと」

の意味で観光という言葉が

使われたそうです。

 

糠部霊場の創始に携わるとされる

観光上人について

詳細は不明とのことですが

一観音霊場創始者の法名が

観音菩薩と縁深きものである点は

深秘であると思いますし

その当時の時代背景を踏まえながら

全国的にも古い霊場である

糠部三十三所の魅力を後世に伝える意味で

新たな“草創譚”を編むことが

出来るようにも感じます。

 

観音霊場の札所ともなった七崎観音は

観光巡礼が流行した時代を迎え

それまで以上の多くの方が

参詣されたことと思います。

 

▼船祈祷の聖教

IMG_1292

▼長峻大和尚

FullSizeRender

▼恵光院(南部町)

IMG_2313

IMG_4243

花巻の清水寺

花巻にございます

音羽山 清水寺(おとわさん きよみずでら)。

 

花巻にて研修会があった際に

お参りさせて頂きました。

 

京都、播磨(はりま、現在の兵庫)と

こちらの清水寺を

日本三清水」というそうです。

 

清水寺といえば

坂上田村麻呂将軍です。

 

花巻の清水寺は

大同2年(807年)に

田村将軍により創建されたと

伝えられます。

 

また慈覚大師の伝説も

伝えられる古刹です。

 

境内には

本堂と庫裏(くり)

観音堂

山門

毘沙門堂

薬師堂など

多くのお堂が並びます。

 

とても立派な伽藍の

御寺院様です。

 

本堂の隣にある観音堂には

十一面観音が祀られます。

 

観音堂本尊の

十一面観音は秘仏ですが

お前立ちとして

大きな十一面観音が

お祀りされております。

 

田村将軍は

十一面観音と関わりのある方で

東北各地にその伝説が残っております。

 

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺の

霊験譚を伝える

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

という古い書物にも

田村将軍のエピソードが

掲載されております。

 

当山の前身である永福寺は

奥州六観音の1つとして

七崎田村の里に

田村将軍が十一面観音を

祀ったことで創建されたと

伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

修行したとされますが

その伝説の最も古いものとされる

お話が掲載されている

室町期の『三国伝記』という書物は

京都の清水寺にて

インドと中国の日本の三者が

観音への法楽(ほうらく)として

輪番でお話をしていくという

筋書きのものです。

 

花巻には由緒ある

寺社仏閣が多くあります。

 

神仏が連なるものとして

お祀りされていた時代の

祈りの形が垣間見られる所が

多く残されているように思います。

 

当山の観音様(七崎観音)は

本堂内の観音堂に

お祀りされますが

かつては本堂とは別の

観音堂にお祀りされていたものです。

 

その観音堂は

七崎山 徳楽寺として

現在の七崎神社の地に

明治時代まであり

当山が別当をつとめておりました。

 

かつては観音堂であったり

何らかの尊格が祀られるお堂が

明治に神社になったり

統廃合されたりすることが

東北でも多く見られます。

 

当山でも

観音堂(七崎山 徳楽寺)が

七崎神社に改められ

七崎観音(聖観音)は本堂内に

お迎えされることになりました。

 

ですが

こちらの清水寺の伽藍は

古い時代の配置を

とどめている部分が多く

今に伝えるものが

多いように思います。

 

▼花巻 音羽山 清水寺HP

http://kiyomizudera.org

 

IMG_8143

IMG_8149

IMG_8147

IMG_8213

IMG_8145

IMG_8150

IMG_8152

IMG_8157

南祖坊伝説の諸相⑤ 長谷寺と南祖坊 その参

当山には十和田湖

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

伝えられます。

 

“最古の十和田湖伝説”とされるのは

室町期の『三国伝記』所収の

「釈難蔵得不生不滅事」の

エピソードです。

 

『三国伝記』という書物は

十一面観音をはじめ

長谷寺の影響が

色濃く見られます。

 

この点につきましては

これまでにもブログで

紹介させて頂いております。

 

南祖坊伝説(十和田湖伝説)は

南部藩領を中心に

広く親しまれ

信仰においても

少なからず影響を与えたことが

様々な文書や

各地に残る石碑や神社などから

うかがい知ることが出来ます。

 

この伝説の発信拠点となったのは

七崎(現在の豊崎町)とされます。

 

当山の前身である永福寺が

殊に深く関わっております。

 

この永福寺は

小池坊(長谷寺)の末寺です。

 

前々回と前回は

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』

という両著作の記述に触れながら

長谷寺との関係を

見てまいりました。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

は天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文で

ここでは先に触れた

『三国伝記』の「釈難蔵得不生不滅事」

を紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

から約20年経った後の

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらでは幾つかの

南祖坊伝説が紹介されます。

 

まず初めに『三国伝記』の

伝説が記述されるのですが

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

での内容とは異なっております。

 

跡形もなく変化している

というわけではありませんが

“重要な舞台”が

熊野ではなく泊瀬(長谷)に

変化しているのです。

 

この変化の意味する所を

永福寺と長谷寺の

本末関係や歴史的背景を踏まえ

紐解こうと試みたのが

前々回と前回の投稿です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音という尊格です。

 

長谷寺の十一面観音は

右手に錫杖(しゃくじょう)

左手に瓶(びょう)を執り

大盤石(ばんじゃく)という

台座に立つ尊容で

長谷式・長谷型といわれます。

 

東国(関東)や東北においても

十一面観音は

古くから信仰されたようです。

 

当山の前身である永福寺も

本尊は十一面観音です。

 

東日本で長谷寺といえば

鎌倉の長谷寺が有名ですが

この鎌倉の長谷寺も

奈良の長谷寺と関わりがあり

この両長谷寺は「姉妹」とも

いわれます。

 

鎌倉の長谷寺の本尊は

奈良の長谷寺と同じ

長谷式の十一面観音です。

 

伝承によれば

奈良の長谷寺の本尊を

造立する際に用いた霊木(楠)と

同じものを海に解き放ち

それが流れ着いた場所に

同じ本尊を建立しようとしたそうです。

 

そして流れ着いた先が

鎌倉であったとされます。

 

また海に流したのは

霊木(楠)ではなく

奈良の長谷寺と同じく彫られた

十一面観音像であったともいわれます。

 

そういった伝承があるがゆえに

奈良と鎌倉の長谷寺は“姉妹”と

いわれるのです。

 

奈良の長谷寺に対して

鎌倉の長谷寺は新長谷寺ともいわれます。

 

東国(関東)において

鎌倉は密教の一大拠点の1つです。

 

鎌倉ついででいえば

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺の三学山は

鎌倉の密教を考える上で

重要な寺院となるようです。

 

青森県で最古の仏像は

三戸郡南部町にございます

蓮台山恵光院(けいこういん)の

観音堂にお祀りされる

十一面観音立像で

平安時代のものとされます。

 

恵光院は通称・長谷寺と呼ばれますが

かつては蓮台山長谷寺という

とても古くからある寺院で

盛岡永福寺の末寺として

盛岡に改められることとなり

その旧地を継承したお寺です。

 

かなり古くから

十一面観音や長谷の信仰が

伝わっていたことを

今に伝えているように思います。

 

長谷寺と名のつくお寺の大部分は

鎌倉の長谷寺もそうですが

奈良の長谷寺にその起源があります。

 

長谷寺をキーワードに

話がかなり膨らんできたので

今回はこの辺で

終わりにしたいと思います。

 

江戸期においては

永福寺が小池坊(長谷寺)末寺で

あることが文書に明記されるのですが

それ以前について詳細は分かりません。

 

ただ長谷信仰や十一面観音の信仰が

とても古くから関東にとどまらず

東北にも伝わっていたようなので

伝説や信仰を考える上で

興味深い要素かと思います。

 

IMG_5683