観音堂の賽銭箱を作っていただきました

本堂建替にあたり

五戸木工さんにお願いしていた

観音堂の新しい賽銭箱を

仕上げていただきました。

 

五戸木工の先代の社長さんが

寄せていたというケヤキを使って

作っていただいたそうで

とても立派なものを

作って下さいました。

 

五戸木工さんには色々と

お世話になっていますが

職人技というものは

本当にすごいものだと

いつも感心させられます。

 

素晴らしいものを

作っていただき

心より感謝しております。

 

現在は仮観音堂に

置かせていただいてますが

空間の雰囲気が

一気に締まったように思います。

 

南祖坊伝説の諸相⑫ 月と太陽

当山は十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したとされるお寺で

南祖坊の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

お祀りされております。

 

一昨年に

十和田湖伝説を伝える

江戸末期の写本

『十和田山神教記』を

手がかりに

当山史と照らし合わたうえ

伝説が想定している

年代について仮説を

試論してみました。

 

▼コチラがその拙稿です。

南祖坊伝説の諸相⑪南祖坊はいつ入定したか?

 

▼コチラは『十和田山神教記』の絵本動画です。

えほん動画『龍になったおしょうさま』

 

度重なる火災で

大量の文書が焼失していることもあり

古代や中世について不明期がある中

過去帳を丹念に調べていたところ

平安期の先師様のお名前を

発見いたしました。

 

▼その時のブログはコチラです。

平安期の先師がお一人発見されました

 

仁和3年(887)7月23日がご命日の

「日照法師 當山」との

過去帳の記載が目に止まったときは

何とも不思議な感覚だったのを

覚えております。

 

その発見も反映して

入定仮説について

次のように

年表にまとまてみました。

 

 

南祖坊は

当山2世・月法律師(がっぽうりっし)の

弟子と伝えられます。

 

昨年発見された日照法師の

没年から考えるに

日照法師も月法律師の

直弟子であった可能性もあります。

 

さらに日照法師の没年は

南祖坊の入定仮説①(878〜892)と

奇しくも重なっています。

 

「月」に対して太陽(日)という

師弟の法名についても

何かしら因縁めいたものが

感じられます。

 

もしかしたら

日照法師は南祖坊の

モデルとなった先師様

なのかもしれません。

 

さらに十和田湖関連でいうと

月日山という霊跡があり

日月神社が鎮座します。

 

月と太陽は

日月輪(にちがちりん)ともいい

仏道において深い意味を持つので

十和田信仰を紐解く上で

教相(きょうそう)的かつ

事相(じそう)的に捉えてみると

新たな意味合いが

浮かび上がってくると思います。

 

参考までに

月輪を光背とする尊格は

とても多いのですが

当山本尊である愛染明王は

日輪を背負った尊格です。

 

本堂建替という

歴史的な節目ということもあり

所蔵される仏像仏具や古文書などを

大掛かりに整理したおかげで

新たな発見や気づきが沢山ありました。

 

それらを踏まえて

十和田湖伝説を改めて

紐解いていきたいと思います。

 

おこもり法要に願いを託して

青空が広がる快晴の一日であり

大きな月が優しい光を

あまねく注いだ一日でもありました。

 

本日は旧暦1月17日大安にあたり

当山では秘仏・七崎観音をご開帳し

法要が行われました。

 

例年とは異なる形での厳修でしたが

とても素晴らしいひとときであったと

感じております。

 

法要の様子は後日

動画にてお伝えいたします。

 

ご一緒下さった皆様には

心より感謝申し上げます。

 

入念に

今月締切の原稿が

何とか仕上がりまして

久しぶりに

心の底から喜んでおります。

 

さて

明日は1年に1度の

尊い法要の日です。

 

気合を入れて

急ピッチで準備を

進めております。

 

考えてみると

仮本堂でのご開帳は

本年と来年だけの

希少価値ある機会となります。

 

それだけに

入念に準備を整え

お勤めさせていただきたいと思います。

 

七崎観音おこもり法要の詳細

 

仮本堂に七崎観音をお遷ししました

28日に秘仏・七崎観音を

ご開帳して行われる行事に向け

本日は仮観音堂より主なお仏像を

仮本堂にお遷ししました。

 

準備をしていると

いつもお世話になっている

小泉電気店の小泉智英さんが

照明を持ってきて下さいました。

 

実際に照明を使ってテストすると

とても素晴らしい雰囲気となりました。

 

おかげさまで

幻想的な空間にて

法要を行うことが出来そうです。

 

▼28日の詳細はコチラをご参照下さい▼

七崎観音おこもり法要か〜年に一度のご開帳〜

 

本年の七崎観音おこもり法要のご案内

2月28日は

旧暦1月17日大安にあたり

この日に

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)を

ご開帳して

法要が行われます。

 

この行事は

「おこもり」とよばれます。

 

例年ですと

午後8時より護摩を行いますが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

別形式でご祈祷の法要を

行います。

 

当日の流れは次のようになります。

 

どなた様でも

ご参列いただけるので

年に1度の行事を

ぜひご一緒下さい。

 

おこもりの流れ

◆仮本堂にて受付(午後7時〜)

お布施、加持物(かじもつ)をお預かりします。

  • 法要中、祈願者名を読み上げますので、読み上げてほしいお名前はお布施の袋にお書きいただくか、別紙ご持参下さい(読みがなを振っていただけると有り難いです)。
  • 読み上げの名簿を作成する都合上、時間にゆとりをもって来ていただけると助かります。また、前日までに受付を済ませて頂いても構いません。メールでも受付いたします。
  • 護摩の時は、加持物(かじもつ)を護摩の煙にあててお加持していましたが、今回はご宝前に設えてお加持いたします。加持物ですが、例えば愛用の服、メガネ、ノート、シャーペンなど、皆様ゆかりの物を風呂敷に包むか、カバンに入れてお持ち下さい。

◆法要(午後8時〜)

法要の中で、祈願者名を読み上げます。ご自身のお名前、あるいは有縁の方のお名前が読み上げられた際は、心願成就を願い、柏手(かしわで)を2度お打ちください(2拍手)。

◆ウイルス対策のため、本年は後席はありません。

◆数に限りがありますが、御護符(おごふ)として落雁(らくがん)をお渡しします。

◆法要後、授与品(お守、お札など)をお授けする授与所を用意するので、入用の方は、そちらでお求め下さい。

 

皆様のご参加

心よりお待ちしております。

 

基礎資料作り(続)

昨日紹介した寺史資料に

江戸以前についても

情報を追記してみました。

 

江戸以前については

詳細な記述がないため

当山の過去帳を典拠にして

開創以降の先師について

追記しました。

 

長い歴史の中で

お名前が分からない先師様が

多くいらっしゃいますが

わずかであっても

お名前が現代に留められていることは

とても凄いことだと感じます。

 

また

弘法大師空海

興教大師覚鑁(かくばん)を

両祖大師(りょうそだいし)に関する

行事についても

一部追記しました。

 

両祖大師に関係する行事にあわせ

記念事業を行う傾向もあるので

様々な考察に有意義なためです。

 

分かっていることや

所蔵しているものを

文字に起こしてみると

案外情報量が多いことに

気づかされます。

 

歴史や伝承は

唯一無二のものゆえ

大切にしたいと思います。

 


※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)

※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。

※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。

※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)

 

  • 開創・圓鏡上人(弘仁8年[817]5月15日ご遷化/過去帳に「當寺開創」と記載/ご遷化の年次から最近では「弘仁初期(810)頃開創」と紹介してきたが、明確なことは分からないため「延暦弘仁年間の開創」と説明されてきた)
  • 月法律師(当山2世/天長8年[831]10月16日ご遷化/南祖法師の師とされる)
  • 七崎観音の“おこり”(承和元年[834]1月7日、八太郎で漁師として暮らしていた京都の四条中納言・藤原諸江卿が観音夢告により、当地に観音様を遷して祀り、それが七崎観音の始まりという由緒譚アリ/坂上田村麻呂将軍[758〜811]が祀ったという話や、諸江卿の娘である七崎姫を七崎観音として祀ったという話が由緒譚としてあるが、実際の経緯については不明[南祖坊を諸江卿の子息とする伝えもある]/大正15年[1926]の『郷社七崎神社誌』では「坂上田村麻呂将軍が当地に来たことは史実」としているが、田村将軍の研究を踏まえると「史実」というのは難しい)
  • 空海ご入定(承和2年[835]3月21日/延喜21年[921]に大師号下賜)
  • 鏡宥上人(貞観10年[868]11月24日ご遷化)
  • 日照上人(仁和3年[887]7月23日ご遷化)
  • 空海に大師号「弘法大師」下賜(延喜21年[921]10月21日/醍醐天皇より)
  • 宥海上人(寛治5年[1091]5月25日ご遷化)
  • 覚鑁入寂(康治2年[1143]12月12日/49年の生涯/元禄3年[1690]に大師号下賜)
  • 開基・行海上人(承安元年[1171]5月に開基/過去帳に「當寺中興」と記載/位牌では表に「開山」、裏に「開基」と記載/全国行脚の後に当地に立ち寄り、村の沼の大蛇を解脱に導き、村人に懇願されて当地に留まられたと伝えられる/旧・観音堂[寺号・徳楽寺、現在の七崎神社の地にあった]の地に、七つ星になぞらえて杉を植えたとされる/建仁年間[1201〜1203]に99歳でご遷化)
  • 行惠上人(寛元2年[1244]1月26日ご遷化/修円房/当中5世)
  • 『三国伝記』(応永14年[1407]成立/沙弥玄棟/説話集/十和田湖伝説が収録/全360話中120話が日本の説話で、そのうち1割もが『長谷寺験記』関係という特徴がある)
  • 宥漸上人(応仁元年[1467]8月26日ご遷化/当山22世/秀満房)
  • 惠海上人(元和3年[1617]5月19日ご遷化/五輪塔が旧・三戸永福寺[嶺松院(明治に廃寺)]の地に現存/本坊盛岡永福寺30世)
  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
  • 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
  • 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)
  • 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
  • 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 覚鑁に大師号「興教大師」下賜(元禄3年[1690]12月26日/東山天皇より)
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 『津軽一統志』(享保16年[1731])
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
  • 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
  • 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
  • 『寛延盛岡城下図』(寛延年間[1748〜51]/本坊・盛岡永福寺ほか関係寺院が記載されている)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
  • 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • “十和田の本地”(天明期[1781〜89]には南部藩領で語られた奥浄瑠璃/諸本多し)
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 『篤焉家訓』(文化・天保年間[1804〜44]/市原篤焉)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 観音堂扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 『竹田加良久里』(文政6年[1823]/持仏堂主人)
  • 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
  • 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
  • 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
  • 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
  • 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
  • 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
  • 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
  • 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 割切五條袈裟(昭和11年[1936]11月/長峻子息・晃雄師[後に出征し戦死])
  • 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

棟札に耳を傾ける④

当山では本堂建替事業の

第5年目を迎え

本年より新本堂の建設が始まり

来年秋頃に完成する予定です。

 

この機会に

普賢院の寺史を

作成したいと考えています。

 

新本堂が完成すると

棟札や古い文書は

再び丁重にしまうことになるので

このタイミングでしか

行うことが出来ないので

当ブログの投稿も活かしつつ

まとめていこうと思います。

 

次第をはじめ文書については

除きますが

当山所蔵の棟札ほか

年代が判明している(一部推定)

江戸期以降の

主な仏像や灯籠などを

あげると以下のようになります。

※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。

 

  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

 

先に少しだけ触れている

大正15年(1926)の

『郷社七崎神社誌』は

当時の社司・小泉幸雄氏が

編纂したもので

結びとして書かれた自序に

次のように記されてあります。

 

神社誌の編纂に志すこと多年。即ち明治37年より大正6年3月に至る14年を以て、漸く完成を見るに至れり。此間資料蒐集に務め、特に盛岡藩南部伯爵家及遠野南部男爵家の古文書の拝見を許され、之れに力を得て多大の成果を収めたり。御両家に対し甚深なる敬意と感謝の誠意を表するものなり。

本誌編纂に当り参考資料は、盛藩旧事記、南部男爵家の御邦内郷村誌、東北太平記、七崎観世音伝話記、其他棟札、不肖幸雄保存せる南部五世伝、南部地雷復、霊験縁起、小泉家系図、言ひ伝並に明治維新に至るまでの事績等の参酌に依るものなるを以て、地方の史実に関するものあるべきも、多少とも本社に関係あるものは或は重複の嫌あるも之を記載せり。

大正6年以降現在までの事績にして、将来記録すべきは之れを記載し且つ新事実の発見する毎に訂正したり。

本年は皇輝ある紀元2600年を迎え奉祝記念として、本誌を印刷に附し広く有志に分ち永久に伝え、以て御神徳発揚の資に供せんとす。

 

当山近くの七崎神社は

明治になるまでは

当山が管理していた

旧観音堂(寺号・徳楽寺)でした。

 

小泉家は

明治まで修験家でもあり

旧観音堂に深く関わりがありました。

 

参考資料にある

七崎観世音伝話記は

幸雄氏の曽祖父にあたる

大学院泰道などが

「古老の伝説」を文政年中に

編纂したものと説明されおり

参詣人の案内役をすることもあった

修験の方々が

一種の手引のような形で

七崎観音にまつわるお話を

まとめられていたことがうかがえます。

 

引用した自序をみると分かるように

神社誌は参考文献をもとにしつつ

神社所蔵の棟札や

当地での言い伝えを踏まえて編集された

力作といえます。

 

当時の状況を考えると

大変なご労力があったと思うのです。

 

この神社誌で

挙げられている棟札と

当山が所蔵する棟札や

一部仏像や仏具などについて

寛永2年(1625)以降のものを

先に列挙してみました。

 

青字で示したのが神社誌で

触れられているものですが

全体からすると

ごく一部のものですし

お寺の歴史を紐解くうえで

ある意味最も尊い古文書たる

過去帳にも触れられていないので

明治以前のことを述べるには

やはり限界があるように感じます。

 

当地の大先輩であり

旧観音堂に仕えていただいた

修験の流れを組むお家の

小泉幸雄氏の労作にて

語られるお寺の歴史を

さらに厚みのあるものに

したいと考えております。

 

また本山の長谷寺や仁和寺や

当時の本坊・盛岡永福寺や

その他多くの関係寺院との

関わりであったり

宗派における節目の行事などを

踏まえると

意義が浮かび上がるものもあるので

そういったことも押さえながら

後世に託すべく『寺史』を

作成したいと思います。

 

ここでようやく

棟札の本題に入らせていただきます。

 

ここに至るまでで

かなりの分量をさいたので

今回の棟札の紹介は

少しだけにします。

 

本堂建替事業まっただ中なので

旧本堂の棟札について見ています。

 

次の画像資料の通り

この棟札は結構大きく

形は剣形(けんがた)で

表裏に文言が見られます。

 

幅についてですが

底が21cmで

上に向かって多少

幅が広がっていまして

一番広い所が22cmです。

 

文言については次回以降

紐解いてまいります。

棟札に耳を傾ける③

少しづつ

懐かしさが増してきた旧本堂。

 

本年から

いよいよ新本堂の建設です。

 

今回は一昨年から

ピタッと更新が止まっていた

「棟札に耳を傾ける」の

第3稿をアップいたします。

 

▼以前のものはコチラ

棟札に耳を傾ける①

棟札に耳を傾ける②

 

当山は

開創以来1200年もの

歴史が積み上げられた古刹で

これまでも様々な節目にあたり

縁起や由緒が

改めて有縁の方や

ご参詣の方に説かれてきました。

 

平成令和の本堂建替においても

所蔵される文書や棟札を踏まえ

近世の史料の記述や

最近の諸資料を見直して

普賢院の寺史を

作成したいと思います。

 

現在発行されている書籍含め

近世の史料がもとになり

当山が紹介されているのですが

近世の史料は

寺史を紐解く上で重要になる

当山の過去帳に触れられていません。

 

過去帳は他見厳禁ゆえ

公開するようなものではありませんが

住職をつとめられた

先師の御名が記された

尊い古文書でもあります。

 

近世の史料に目を通してみると

お寺の創建について

諸開山上人の没年齢が

創建年代や中興年代になっていたり

記載される棟札の文言に

誤植が見られるなど

注意を払うべき所が多くあります。

 

それらをのみ

典拠としてしまうと

当然のことながら

不十分な説明にならざるをえません。

 

専門性が高く

いわゆる郷土史という

枠組みだけでは

紐解けない部分もあるので

個々の課題を明らかにしつつ

出来る形で

整えていきたいと考えております。

 

これまでも

当山について

様々なことを紹介して

まいりましたが

最近は資料を添付しつつ

投稿を重ねております。

 

特に棟札については

文字ばかりよりも

添付した図のような形の方が

断然分かりやすいと思うので

資料を示しつつ

お話を進めていきたいと思います。

 

ここしばらくは

文化8年(1811)の旧本堂棟札について

お寺の歴史に触れながら

見ていきたいと思います。

 

資料が現時点で

13枚あるので

投稿を重ねる中で

説明を補足する形式で

「棟札に耳を傾ける」シリーズを

進めていきたいと思います。

 

▼旧本堂(令和元年お盆の様子)

 

▼以下、資料画像になります。

 

以上が、現時点で

用意した画像になります。

 

まだ未完ですが

とりあえずアップいたします。

 

ブログの文章よりも

ビジュアル的なので

ストーリーが分かりやすい

のではないでしょうか。

 

これらの資料をたたき台に

棟札について紐解きつつ

お寺の歴史や伝説についても

紹介させていただきたいと思います。

七崎観音と早稲田観音のお話

当山に

七崎観音(ならさきかんのん)として

お祀りされる観音様は秘仏で

旧暦1月17日にのみご開帳されます。

 

本年は2月28日が

ご開帳にあたり

ご宝前にて

午後8時より法要が行われます。

 

ということもあり

今月は当山の観音様に関連した

投稿が多めになっております。

 

これまでも何度か

とりあげてきましたが

現在、七崎観音として祀られる

聖観音像はもともと

御前立(おまえだち)であり

本来秘仏として祀られていたのは

別の聖観音像であるということが

最近になって判明しました。

 

御前立と秘仏が入れ替わったのは

明治になってからの

神仏分離における諸対応であったり

明治から昭和にかけての

諸住職が交代されるときに

十分な申し渡しがなされなかったり

戦争期に一時住職が不在となったり

様々な要因が重なって

引き起こされたと思われます。

 

ある意味

歴史に翻弄された結果と

いえるのではないでしょうか。

 

もともとの形と

現状との違いは

“激動の歴史”を背景としているので

この部分も

語り継いでいくべき

エピソードだと感じています。

 

今後は江戸期までの秘仏を

本七崎観音(もとならさきかんのん)

と呼ばせていただきます。

 

さて

本日はこの本七崎観音と

三戸沖田面の早稲田観音について

とりあげたいと思います。

 

今回も

画像資料を用意したので

そちらをご覧いただきながら

お読みいただければと思います。

 

画像資料は要点を

まとめているので

かえって分かりやすい

かもしれません。

 

七崎観音と早稲田観音は

歴史的に深く関わっており

いずれの別当も

「永福寺自坊」でした。

 

当地には

永福寺の地名が残りますが

これはかつて当山が

永福寺と呼ばれていたためです。

 

当山は

延暦弘仁年間(8C末〜9C初頭)に

圓鏡上人により開創され

承安元年(1171)に

行海上人により

開基(過去帳には中興とある)

されたお寺です。

 

また鎌倉〜江戸時代初期には

永福寺の寺号が用いられました。

 

永福寺(えいふくじ)は

鎌倉二階堂の永福寺(ようふくじ)の

僧侶である宥玄を開祖として

建久2年(1191)に三戸に

建立されたとされます。

 

この建立には経緯があり

そのことについては

以前も何度か紹介しておりますので

そちらをご参照下さい。

https://fugenin643.com/blog/%e6%a3%9f%e6%9c%ad%e3%81%ab%e8%80%b3%e3%82%92%e5%82%be%e3%81%91%e3%82%8b%e4%ba%8c/

 

要するに

三戸に建立された永福寺が

当山も管理することとなり

次第に当山も

永福寺と呼ばれるように

なっていったとされるわけです。

 

三戸の永福寺と

七崎の永福寺は

元和3年(1617)盛岡に

永福寺が建立されるに伴い

自坊と位置づけられました。

 

盛岡を本坊とし

旧地である三戸と七崎の永福寺は

自坊・嶺松院(れいしょういん、三戸永福寺)

自坊・普賢院(ふげんいん、七崎永福寺)

という関係になります。

 

前置きがとても長くなりましたが

早稲田観音は嶺松院が別当寺で

七崎観音は普賢院が別当寺なので

両観音は関わりがとても深いのです。

 

本堂建替という

歴史的節目ということもあり

ここ数年

これまでにも増して

本格的に様々な調査を

進めてまいりましたが

早稲田観音の観音像と

本七崎観音の観音像について

次のような可能性が

浮上いたしました。

 

 

歴史的背景と

棟札などの史料を踏まえると

この2つの観音像は

かなり高い可能性で

同じ時期に同じ仏師あるいは仏所で

作仏されたものと思われます。

 

いずれも

南部重直公の奉納で

宥鏡上人が本坊住職の時期です。

 

宥鏡上人は

本山の長谷寺(奈良県桜井市)から

おいでになり

本坊住職となられた方です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音であり

また長谷寺は西国三十三観音霊場の

草創に深く関わるお寺で

“観音信仰の拠点”ともいうべき所です。

 

長谷寺からいらした宥鏡上人は

観音様とご縁の深い方であり

自坊(普賢院と嶺松院)観音堂の

再興にご尽力されていたことは

後世に伝えたい事績といえます。

 

仏像の造形においても

とても多くの共通点を

見い出すことが出来ます。

 

本七崎観音は

所々かなり傷んでいたため

本堂建替事業のなかで

修繕することにし

現在修繕に取り掛かっております。

 

修繕を決めた当初は

まだ由緒も判明していませんでしたが

不思議なもので

最近になって点と点が一気につながり

色々と浮かび上がってきました。

 

これまで本七崎観音は

旧本堂の観音堂の内殿に

安置されており

内殿の観音扉が開かれるのは

年に1回のみだったので

そもそも調査する機会が

ありませんでした。

 

本堂建替という大きな取り組みが

本七崎観音の由緒を

明らかにしてくれたように

感じています。