絵本の刊行記念イベントが行われます

昨年クラウドファンディングで

作成した絵本

『龍になったおしょうさま』の

刊行記念イベントが

令和4年4月10日に

八戸ブックセンターで

行われることになりました。

 

「十和田湖伝説と南祖法師」

というタイトルで

開催いたします。

 

感染症対策のため

定員は10名となっております。

 

詳細は

下記サイトよりご確認いただき

参加お申し込み先に

ご連絡下さいますよう

お願いいたします。

 

【アカデミック・トーク】『龍になったおしょうさま』刊行記念 「十和田湖伝説と南祖法師」

上棟式がつつがなく厳修されました

本堂の上棟式を

無事に厳修することが出来ました。

 

携わって下さった皆様

おいで下さった皆様

大変ありがとうございました。

 

天候が心配されましたが

本日午前中は天候に恵まれ

つつがなく上棟式の典儀を

挙げることが出来ました。

 

上棟式は

青空のもとで開催されました。

 

上棟式が結ばれて程なくして

八戸では雪が舞い降りました。

 

本日の天候のあり方は

今後の瑞兆と捉えたいと思います。

 

上棟式の様子を伝える動画を

用意したので

ご覧いただけると幸いです。

 

おこもり法要の記事が新聞に掲載されました

本日のデーリー東北(朝刊)に

本年のおこもり法要の記事が

掲載されました。

 

令和3年と令和4年の

おこもり法要(毎年旧暦1月17日)は

仮本堂での開催だったため

通常とは形式を変えて

法要をお勤めいたしました。

 

令和5年からは

新本堂での開催となります。

 

火の修法である

護摩法要をお勤めいたしますが

これまでの形式の護摩法要とは異なり

来年以降は大般若(だいはんにゃ)という

修法を取り入れた形式で

一層厳かに厳修いたします。

 

大般若というのは

つぶさには

大般若波羅蜜多経という経典で

600巻にも及ぶものです。

 

当山では

文化8年(1811)の火災の際に

大般若を焼失しているのですが

本堂建替という歴史的節目にあたり

新調することが叶いました。

 

大般若経典は

転読(てんどく)という作法により

力強く祈りを捧げる

「法具」ともいえます。

 

普賢院は

供養をになう菩提寺であると同時に

祈願をになう祈願寺でもあった

という歴史的経緯をもっています。

 

祈願本尊であったのが

七崎観音(ならさきかんのん)で

明治時代になるまでは

現在の七崎神社がある地にあった

七崎観音堂に祀られ

当山は七崎観音別当として

祭祀を主管してまいりました。

 

当山が所蔵する

江戸期の七崎観音堂の

棟札(むなふだ)の記述を踏まえるに

観音堂は15世紀頃に徳楽寺という

寺号(じごう、お寺の名前の意)が

用いられていると考えられます。

 

七崎観音堂は

明治に廃止され

境内地も分離することとなり

仏像仏具は別当寺普賢院に

移されました。

 

普賢院住職は

七崎観音別当という

役職も代々になっております。

 

遷座当初は

突貫工事的に設えた祭壇に

諸仏を置いただけといった

状態だったそうですが

明治以降の住職方の

すさまじいご尽力により

内御堂(うちみどう)として

七崎観音堂は再興されていきます。

 

特に61世長峻大和尚の時代と

前住職である64世泰永大和尚の時代に

観音堂の整備は大きく進められ

素晴らしく荘厳な空間となりました。

 

その志を受け継ぎ

拙僧泰峻も現七崎観音別当として

今後も努力してまいります。

 

大般若の話に戻りますが

200年以上の時を経て

再び用意された大般若経典なので

七崎観音堂での法要においても

使わせていただきたいと思います。

 

本年12月の本堂落慶式でも

大般若法要を行う予定です。

 

落慶式で大般若を行うわけですが

当山では200有余年ぶりに行われる

大般若法要となります。

 

他宗においても

大般若法要は行われますが

真言宗の法式は

当地の方はご覧になったことが

ない方が大部分かと思います。

 

しかも

落慶式では十数名の住職方に

おいでいただき厳修するので

とても迫力ある法要になるかと思います。

 

落慶式以降は

おこもり法要はじめ

伝統ある祈りの形式の1つである

大般若法要のひとときに

有縁の皆様に触れていただけるよう

色々と考えたいと思います。

 

 

 

▼当日の法要の様子

 

▼令和3年(2021)の様子

 

▼令和2年(2020)の様子

 

▼平成31年(2019)の様子

 

▼平成30年(2018)の様子

 

▼平成29年(2017)の様子

この年は前住職泰永僧正が導師を勤めました。

これが泰永僧正の生前最後の護摩法要でした。

昭和の最困難期

普賢院61世である

長峻和尚は

現在の住職の曽祖父にあたります。

 

近現代の“巨星”ともいえる

長峻和尚の住職在位20年は

当山はもちろんのこと

携わった関係寺院の

興隆期となりました。

 

長峻和尚は行年60で

ご遷化されるのですが

その当時

次代となる晃雄和尚は

また14歳でした。

 

そのため

晃雄和尚が晋山されるまでの間は

代務住職により

法務がなされています。

 

晃雄和尚の晋山式は

昭和19年(1944)に行われました。

 

この晋山式は

晃雄和尚の出征にあたる

送別のひとときでもありました。

 

晋山式を終えて程なくして

晃雄和尚は出征し入隊されます。

 

晃雄和尚の弟である高明氏もまた

同年6月15日に出征しました。

 

住職と弟が不在となった普賢院。

 

晃雄和尚と高明氏の

姉と妹が

法務(葬儀や法事など)も担い

お寺を守ることになります。

 

拙僧泰峻からみると

大叔母と祖母にあたります。

 

63世となる

裕教和尚を迎えるまでの約4年間。

 

大変な苦労があったのは

いうまでもありません。

 

当時東京の親戚にあてた手紙によると

泥棒に入られたこともあるそうです。

 

昔を知る総代さんのお話ですと

馬鹿にされたこともあったそうです。

 

そういったことを乗り越えて

今があるということは

忘れてはならないと

心にとめております。

 

 

 

 

 

  • 大正5年(1916)10月 普賢院61世長峻和尚 住職就任
  • 大正7年(1918)8月8日 長女 道子誕生
  • 大正10年(1921)8月10日 長男 晃雄誕生
  • 大正12年(1923)6月5日 次男 高明誕生
  • 大正14年(1925)8月18日 次女 誕生
  • 昭和2年(1927)八太郎の蓮沼で「聖観音」と刻された石が発見される
  • 昭和4年(1929)旧8月17日に蓮沼に「北沼観音」のお社を建立
  • 昭和6年(1931)観音堂(内御堂)と仁王門を改築
  • 昭和6年(1931)子安地蔵堂建立
  • 昭和9年(1934)本堂と庫裏を修繕(当時、累年の凶作で経済的に大変な時代)
  • 昭和9年(1934)8月 弘法大師1100年御遠忌を厳修
  • 昭和10年(1935)5月 長峻和尚 山形県湯殿山の大日坊88世住職兼任(大日坊での住職名は慈念海上人忍光上人)
  • 昭和11年(1936)3月3日(旧2月10日)長峻和尚ご遷化(行年60)
  • 昭和17年(1942)3月28日 晃雄和尚四度加行成満(阿闍梨 神林隆淨僧正/慈光山道場にて)
  • 昭和17年(1942)10月12日 晃雄和尚灌頂(東京の護国寺にて)
  • 昭和18年(1943)晃雄和尚の割切袈裟一領(年月と晃雄と墨書きあり)
  • 昭和19年(1944)晃雄和尚晋山・出征(2月28日頃出発、3月1日弘前野砲隊へ入隊)
  • 昭和19年(1944)6月5日 長峻和尚後妻ツネ逝去(行年61/明治17年(1884)9月15日生まれ/出身地は現在の岩手県沼宮内の柴田家/60世宥精師[大正5年(1916)5月24日 行年35でご遷化]の妻で、長峻師とは再婚)
  • 昭和19年(1944)6月15日 高明氏出征(前日に送別会が行われ、その時の写真が残っている)
  • 昭和20年(1945)4月8日 高明氏戦死(フィリピンルソン島マウテル州バキオ付近にて/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和20年(1945)7月30日 晃雄和尚戦死(フィリピンルソン島ダラカン州にて戦死/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和22年(1947)本堂屋根葺替の木札に当時の様子が記述され、その中に「晃雄住職の生死不明」とある。

 

もうすぐ秘仏ご開帳です

令和4年2月17日は

旧暦1月17日大安にあたります。

 

この日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)を

ご開帳して法要を厳修します。

 

この行事は

「おこもり」とよばれます。

 

令和2年までは

午後8時より護摩を行っていましたが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

昨年同様

別形式でご祈祷の法要を

行います。

 

当日の流れは次のようになります。

 

どなた様でも

ご参列いただけるので

年に1度の行事を

ぜひご一緒下さい。

 

おこもりの流れ

◆仮本堂にて受付(午後7時〜)

お布施、加持物(かじもつ)をお預かりします。

  • 法要中、祈願者名を読み上げますので、読み上げてほしいお名前はお布施の袋にお書きいただくか、別紙ご持参下さい(読みがなを振っていただけると有り難いです)。
  • 読み上げの名簿を作成する都合上、時間にゆとりをもって来ていただけると助かります。また、前日までに受付を済ませて頂いても構いません。メールでも受付いたします。
  • 護摩の時は、加持物(かじもつ)を護摩の煙にあててお加持していましたが、今回はご宝前に設えてお加持いたします。加持物ですが、例えば愛用の服、メガネ、ノート、シャーペンなど、皆様ゆかりの物を風呂敷に包むか、カバンに入れてお持ち下さい。

◆法要(午後8時〜)

法要の中で、祈願者名を読み上げます。ご自身のお名前、あるいは有縁の方のお名前が読み上げられた際は、心願成就を願い、柏手(かしわで)を2度お打ちください(2拍手)。

◆ウイルス対策のため、本年も後席はありません。

◆数に限りがありますが、御護符(おごふ)として落雁(らくがん)をお渡しします。

◆法要後、授与品(お守、お札など)をお授けする授与所を用意するので、入用の方は、そちらでお求め下さい。

 

皆様のご参加

心よりお待ちしております。

 

 

▼令和3年の様子(仮本堂にて厳修)

 

▼令和2年の様子(旧本堂にて厳修)

 

▼平成31年の様子

 

▼平成30年の様子

 

▼七崎観音についての動画

 

七崎観音の近現代

2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳日です。

 

この日は

午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と

通称されます。

令和4年おこもりのご案内

 

明治時代になり七崎観音は

行ったり来たりを繰り返した

ということは

これまでも触れてきましたが

そのことをいまに伝える

明治10年(1877)『伺』(うかがい)

という県令への文書があります。

 

以下に引用するのは

その翻刻です。

 

往来がわかる部分は

色を付しています。

 

赤は1回目

青は2回目

紫は3回目の遷座の記述です。

 

なお

原文のくずし字を

拙僧泰峻が翻刻したのですが

何文字か解読困難な箇所があり

文脈から字をあてていることを

あらかじめお断りしておきます。

 

 

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿

 

以上が『伺』の翻刻となります。

 

どのような

伺いがたてられているかというと

江戸期に梵鐘を奉納した方の

孫にあたる方が

奉納した梵鐘の返還を

強く求めていることに対する

対応について

当地の代表者方が

当時の県令に問うているわけです。

 

この文書中に

明治初期の当地における

神仏分離の対応を

読み取ることが出来ます。

 

これまでの慣習も尊重しつつ

新たな時代に対応しようと

努められている様子が

伝わってくるように思います。

 

昨日の投稿では

当山61世の長峻和尚について

少しばかり紹介いたしました。

 

名僧というべき長峻和尚は

住職在位中の約20年にわたり

普賢院を復興され

さらには兼務寺院興隆にも

ご尽力されました。

 

長峻和尚は研究者肌だったようで

晩年に到るまで時間があれば

ひとり研究に励まれていたそうです。

 

1901年(明治34)に

普賢院では興隆講という

講が発足しています。

 

興隆講については

以前にブログで触れているので

よろしければそちらも

ご参照下さい。

稀代の古刹 七崎観音⑩

 

興隆講は

七崎観音堂の再興事業とでも

いうべき取り組みです。

 

定期的に集まり

護摩祈祷を行ったり

法話を聞いたりなど

積極的な活動が

なされていたようです。

 

長峻和尚の祈祷や護摩には

多くの人が集まったそうです。

 

カリスマ的な住職だったと

いえるかと思います。

 

東北屈指の霊場である

山形県鶴岡の

湯殿山大日坊の住職を

最晩年は務めるわけですが

多忙が過ぎたこともあり

病魔におかされ

行年60でご遷化されました。

 

それからしばらくの間

当山は困難な時期となります。

 

62世晃雄和尚が住職になるのは

長峻和尚亡きあと

しばらくたってからとなるのですが

その晃雄和尚の晋山式は

同時に出征送別のひとときでもありました。

 

戦争期において

七崎観音へは

身内が出征した方が

多く参詣されるようになったそうです。

 

明治から昭和まで

話が飛んでしまった感がありますが

明治以後の激動期については

可能な限りの記述を試みたいと思います。

 

今回は

明治初期における神仏分離への対応を

今に伝える文書『伺』の紹介と

“巨星”長峻和尚とその後について

多少触れさせていただきました。

 

 

 

 

普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚

東北を代表する霊山である

山形県鶴岡の大日坊の住職を

八戸(当時は五戸)のお寺の住職が

兼任していたことを

ご存じの方は少ないと思います。

 

普賢院第61世にあたる

品田長峻(1877〜1936)は

俊秀な僧侶で

その手腕は内外に

高く評価されていた方で

三戸郡南部町の恵光院を兼務され

最晩年は大日坊の

第88世住職を務めた名僧です。

 

現住職である拙僧泰峻の僧名は

先代泰永の「泰」と

長峻和尚の「峻」の字を

いただいております。

 

長峻和尚は拙僧泰峻の

曽祖父にあたります。

 

江戸時代までは

当山住職は選抜された方が

就任されていたのですが

明治になると事情が大きく変わり

在地の者が住職として

お寺を守ったようです。

 

秀でた僧侶の赴任が途絶えたため

在地の方が住職になるために

取り急いで出家して僧侶となり

住職をつとめた方がいたり

同宗派寺院住職に

代務者を務めていただきながら

何とか体裁と整えていた時期も見られます。

 

実際に僧侶として

あるいは住職を務める者として

思うのですが

修行と修学の両輪を

必要最低限納め

さらに様々な法要や儀式や

慣習を経験しながら

道を深めていくには

長い年月が必要なので

突発的に出家して

住職を務めるというのは

相当大変だったと思います。

 

そのような状況で

この長峻和尚が

当山住職に抜擢され

当地に赴任されて以後

普賢院は大いに復興され

併せて七崎観音堂も

再興を遂げていくこととなります。

 

長峻和尚の葬儀にて

大導師により読まれた

歎徳文(たんどくもん)や

僧侶としての履歴書ほか

過去帳を手がかりに

関連する事柄を

時系列に並べると以下のようになります。

 

  • 明治10年(1877)10月4日生(出生地は新潟県刈羽郡/五男/俗名 弥平太)
  • 明治22年(1889)12月11日 千光院(大崎)住職・鬼山長慶師の室に入る(弟子となる)
  • 明治24年(1891)12月11日 檀林所円満寺において学頭(権田雷斧師に従い全科卒業)
  • 明治25年(1892)1月27日 得度(千光院において/戒師阿闍梨 文澄師)
  • 明治25年(1892)四度加行(2月12日[開白]〜11月21日[結願]/千光院において/履歴には「報恩院流憲深方二依り」と記載)
  • 明治26年(1893)4月21日 灌頂(新潟の善照寺において/長慶阿闍梨に従い入壇)
  • 明治26年(1893)7月10日 改名(戸籍名も長峻とする/この年月日に「安田正秀殿聞届」と履歴に記載あり)
  • 明治28年(1895)12月12日 度牒(真言宗長者 権大僧正 鼎龍暁師より拝受)
  • 明治29年(1896)一流伝授(7月10日[開白]〜20日[結願]/高善寺において/穂波快念阿闍梨による小島流伝授)
  • 時期詳細不明 新義真言宗中学林(長野県で3年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 正則英語学校(東京で5年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 管長猊下の命により北海道開教に従事(2ヶ所に寺院を新設/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 大正4年(1917)10月17日 『重要神誓文』(亡母の命日に、結婚にあたって自身の誓文をしたためている)
  • 大正5年(1916)7月20日 先妻せつ子逝去
  • 大正5年(1916)10月 普賢院61世住職就任
  • 大正7年(1918)8月8日 長女 道子誕生
  • 大正8年(1919)6月 恵光院(三戸郡南部町)住職兼任
  • 大正10年(1921)8月10日 長男 晃雄誕生
  • 大正12年(1923)6月5日 次男 高明誕生
  • 大正15年(1926)8月18日 次女 豐誕生
  • 昭和2年(1927)八太郎の蓮沼で「聖観音」と刻された石が発見される
  • 昭和4年(1929)旧8月17日に蓮沼に「北沼観音」のお社を建立
  • 昭和6年(1931)観音堂(内御堂)と仁王門を改築
  • 昭和6年(1931)子安地蔵堂建立
  • 昭和9年(1934)本堂と庫裏を修繕(当時、累年の凶作で経済的に大変な時代)
  • 昭和9年(1934)8月 弘法大師1100年御遠忌を厳修
  • 昭和10年(1935)5月 山形県湯殿山の大日坊88世住職兼任(大日坊での住職名は慈念海上人忍光上人)
  • 昭和11年(1936)3月3日(旧2月10日)ご遷化(行年60)
  • 昭和17年(1942)3月28日 晃雄和尚四度加行成満(阿闍梨 神林隆淨僧正/慈光山道場にて)
  • 昭和17年(1942)10月12日 晃雄和尚灌頂(東京の護国寺にて)
  • 昭和18年(1943)晃雄和尚の割切袈裟一領(年月と晃雄と墨書きあり)
  • 昭和19年(1944)晃雄和尚晋山・出征(2月28日頃出発、3月1日弘前野砲隊へ入隊)
  • 昭和19年(1944)6月5日 後妻ツネ逝去(行年61/明治17年(1884)9月15日生まれ/出身地は現在の岩手県沼宮内の柴田家/60世宥精師[大正5年(1916)5月24日 行年35でご遷化]の妻で、長峻師とは再婚)
  • 昭和19年(1944)6月15日 高明氏出征(前日に送別会が行われ、その時の写真が残っている)
  • 昭和20年(1945)4月8日 高明氏戦死(フィリピンルソン島マウテル州バキオ付近にて/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和20年(1945)7月30日 晃雄和尚戦死(フィリピンルソン島ダラカン州にて戦死/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和22年(1947)本堂屋根葺替の木札に当時の様子が記述され、その中に「晃雄住職の生死不明」とある。

 

正則英語学校で学んでいたため

英語には通じていたようで

亡くなった祖母の話ですと

通訳をお願いされたり

英語の教えを請われる程だったそうです。

 

長峻和尚は幼少の頃から

修行と修学に励まれていたことが分かります。

 

長峻和尚の

観音堂でのご祈祷には

大勢の方がご参列され

その法話に耳を傾けたそうです。

 

3つもの古刹の

再興に情熱をもって粉骨砕身した

長峻和尚ですが多忙が過ぎ

行年60でご遷化されています。

 

2022年である今から

100年さかのぼる1922年は

大正11年にあたり

長峻和尚は当時45歳にあたります。

 

その頃は当山住職に

就任されて6年という時です。

 

ここ最近は

七崎観音の近現代について

主にブログで取り上げておりますが

長峻和尚が書かれた表白などの文書に

それまでの状況であったり

観音堂の修繕の様子が

細やかに述べられているので

それらについて

改めて見ていきたいと思います。

 

さらに

長峻和尚ご遷化の後

当山は戦争の影響で

かなり困難な状況を迎えます。

 

戦争期については

何かしらの形で

書きとどめておくべきものと思いますので

祖母から生前に聞いた話のメモを

手がかりにその当時の様子について

紹介したいと思います。

 

▼長峻和尚

 

▼湯殿山大日坊での一枚

 

▼愛娘たちとの一枚

 

 

 

 

 

2体の七崎観音についてショートムービーを作りました

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)は

明治時代を迎えるまでは

現在の七崎神社の地にあった

七崎観音堂に祀られていました。

 

神仏分離政策への対応のため

七崎観音堂は廃止され

堂内の諸尊・諸法具は

別当寺である普賢院へ移されました。

 

七崎観音堂は

「稀代の古刹」と称されるほど

多くの方に崇敬され

代々の藩主にも庇護されてきましたが

明治に廃止され

突貫工事的に普賢院本堂内に用意された

観音堂に遷座されることになります。

 

普賢院本堂の一隅に用意された

観音堂のスペースは

とても簡素なもので

盛時の面影は

全くなかったそうです。

 

しかし

明治以後の住職方のご尽力により

七崎観音堂は

普賢院本堂の内御堂(うちみどう)として

再興されていくことになります。

 

明治、大正、昭和、平成を通じ

観音堂は素晴らしい空間に

整備されてまいります。

 

歴代住職方が繋がれてきた

尊い「思い」を令和においても

しっかりと引き継ぎたいと思います。

 

そのようなことに触れながら

七崎観音についての動画を

用意したので

ご覧いただけると幸いです。

 

かつての七崎観音堂のイメージ図

本年2月17日は

七崎観音(ならさきかんのん)

おこもり法要

が行われます。

 

七崎とは現在の豊崎町の旧称です。

 

七崎観音は

聖観音(しょうかんのん)という観音様です。

 

七崎観音おこもり法要という行事は

秘仏の七崎観音をご開帳して

行われる法要です。

 

例年ですと

護摩を行うのですが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

昨年同様に形式を変えて

ご祈祷の法要を行ないます。

 

以下に

本年の法要のご案内と

これまでの

アーカイブ(動画)の

リンクを貼っておきます。

令和4年おこもりのご案内

 

旧暦1月17日に行われるこの行事は

「おこもり」と通称されます。

 

一時は

存続の危機にあったのですが

試行錯誤を重ねまして

この10年で少しづつ

参列者も盛り返し

多くの方にご縁を

お結びいただけるようになりました。

 

当山HPは2016年に開設して

同時に「おてらブログ」も

開始したのですが

おこもりの時季となると

お寺の歴史であったり

七崎観音の由緒であったり

おこもりについての投稿を

重ねております。

 

過去の記事を見てみると

よくこれだけ多くのものを

調べてまとめたものだと

自身でも驚く程です。

 

ただ

記事のボリュームがあるうえ

投稿数も結構あるため

自身でもいつ何をまとめたのか

調べるのが大変なため

最近は画像資料として

整理したり

過去の記事を添付するなどして

あらためて当山と

向き合わせていただいております。

 

本年もおこもりの日が

近づいてきたので

七崎観音に関連する投稿を

重ねたいと思います。

 

少し前に

江戸期における

七崎観音の祀られ方について

紹介いたしました。

 

それがこちらの記事になります⬇

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

 

今回は前回の続きとして

もう少し具体的に

かつての七崎観音が

どのような所にどのような形で

祀られていたのかについて

拙僧泰峻が法流(お作法や法式などの流れ等)

を踏まえて出来るだけ具体的に

紐解いてみたいと思います。

 

諸史料・資料で

当時の要素を整理したうえで

法流を踏まえて

旧七崎観音堂が

どのようなものであったかを

考察するに

以下に用意した画像資料の

ようになろうかと思います。

 

まずは

旧七崎観音堂内ですが

七崎観音ご宝前には

護摩壇ほか法具が

荘厳されていたはずです。

 

▼江戸期の観音堂内部

 

次に観音堂のお堂についてですが

『新撰陸奥国誌』掲載の

俯瞰図(スケッチ)により

方形(ほうぎょう)であったことがわかります。

 

方形とは

正方形のお堂で

観音堂として採用とされることが

とても多かった様式です。

 

江戸期の棟札や史料により

七崎観音堂の大きさも分かっています。

 

七崎観音堂のイメージ図も含め

以下に画像資料を掲載します。

 

 

以上、今回は

旧七崎観音堂について

より具体的に紹介いたしました。

 

七崎観音とご縁を

お深めいただけると幸いです。

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

普賢院に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳が近づいてまいりました。

 

本年は2月17日となります。

 

ご開帳された観音様のご宝前で

午後8時から法要が

執り行われます。

 

詳細は下記リンクを

ご参照下さい▼

令和4年おこもりのご案内

 

当山では

文化8年(1811)以来の

本堂建替を行っており

それに伴い

仏像仏具等の再整理・調査も

行ないました。

 

そのおかげで

判明したことや確認されたことなどが

沢山ありました。

 

七崎観音についても

色々と浮かび上がったことがあります。

 

以前もお伝えしたように

現在普賢院には

「2体の七崎観音」が

祀られています。

 

区別するために拙僧泰峻は

現 七崎観音(げんならさきかんのん)

本 七崎観音(もとならさきかんのん)

と呼び分けております。

 

昭和51年に

旧本堂の大改修が

行われるまでは

本七崎観音は大きな春日型厨子に

納められていました。

 

また

現七崎観音と本七崎観音は

並列(横並び)に

安置されていたそうです。

 

本七崎観音の厨子は

かなり傷みが激しかったようで

かなり前に処分されています。

 

本七崎観音像は

蓮弁に激しい鼠害が見られました。

 

また

本七崎観音が奉納された際の

観音堂並末社十二宮再興棟札も

古い鼠害が見られるため

恐らく観音像の後ろに

棟札が祀られていたと思われます。

 

そういったことを

図像資料にしてみたので

ご覧いただいて

七崎観音とのご縁を

深めていただけると幸いです。