かんのんまいり 岡田観音

糠部(ぬかべ)三十三観音

第3番札所

籠田(かごた)岡田観音。

 

松館にある札所です。

 

一年に一度

12月17日のみに

御開帳されるそうです。

 

岡田観音は

御開帳される時以外に

そのお姿を見てしまうと

目がつぶれてしまうといわれます。

 

かつては天台寺(てんだいじ)と

呼ばれていたそうです。

 

岡田観音のある山を

鶴林山(かくりんざん)といいます。

 

鶴林山はかつて

修験道場のお山でした。

 

岡田観音のある

松館地区には

月山神社

松館大慈寺もあります。

 

松館大慈寺は

とても由緒ある寺院で

開基は南部利直公です。

 

ちなみにですが

南部利直公は自身を

十和田湖伝説に登場する

南祖坊の「生まれ変わり」

であるとした方です。

 

色々な歴史や伝承に

触れることが出来る

松館地区の岡田観音。

 

お参りされる際は

周辺の諸堂にも

お運びになられると

より一層深い

巡礼になるかと思います。

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【月山神社】

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【松館大慈寺】

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おいなりさま

地元では稲刈りが

本格的に始まっております。

 

当山には

境内と観音堂内に稲荷大明神が

お祀りされます。

 

お稲荷様としても

馴染みのあるこの神祇は

五穀豊穣のほか

様々な功徳があるとされます。

 

稲荷社は全国に多数あり

その総本社は伏見稲荷です。

 

この伏見稲荷は

弘法大師とも関わりのある

由緒ある所です。

 

 

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南祖坊伝説の諸相 中尊寺姥杉

『平泉雜記』という書物に

南祖坊(なんそのぼう)が

植えたという伝えのある

姥杉(うばすぎ)について

記されております。

 

「中尊寺姥杉」の伝説として

以下のように記されております。

 


姥杉は中尊寺鎮守白山宮の傍にあり

此樹四丈八尺ありしが

今は幹も枯朽うつぼ木となれり

枝條少し残て

猶緑葉を存す

 

郷説に

昔本州南部

南宗房と云し僧

手自植しと云

 

近世此杉

根を香となし香會に用ひ

雅玩と為とかや

 

中條吉村公道奥と

名を命じ玉ひしとかや

未だ其の實否を不知

 

南宗は本州南部の産にして

康元年中(1256〜1257)の人と云り

 

慈氏菩薩の下生を待とて

鹿角郡十和田沼に入りて蛇と變じ

今に水底に居て

種々奇異の事多しろ

南部の故人語れり

 

南宗か事

予所聞を書して

別に一小冊と為す


 

ここで南祖坊は

鎌倉時代にあたる

康元年中(1256〜1257)の人であり

中尊寺鎮守である白山神社のそばに

杉を手植えし

それが約15メートルもの

大きさになったとされております。

 

白山神社の由緒によれば

慈覚大師円仁が

白山を鎮守として勧請し

自ら十一面観音を作り

それを白山権現と号したとされます。

 

この十一面観音の信仰は

奈良時代頃から盛んだったようで

“最古の十和田湖伝説”が収録される

室町時代の仏教書である

『三国伝記(さんごくでんき)』自体に

十一面観音信仰との関係が見られます。

 

白山は

石川県と岐阜県にまたがる山で

白山を開山した

行者の泰澄(たいちょう)が

越前・越知山(おちさん)での修行中

霊夢により白山へ登ることを決めます。

 

そして山麓の林泉(りんせん)で

妙理権現(白山神)と逢い

その導きにより頂上に登り

十一面観音を感得したと

伝えられます。

 

当山は永福寺発祥の地ですが

その永福寺は十一面観音を本尊とし

奥州六観音の一つとして

田村将軍によって創建されたとの

伝えがあります。

 

諸要素を仏教的視点を踏まえて

細かに見てみると

十一面観音との関係が

驚くほど多く見られます。

 

少し専門的な話になりますが

近世までにおいて

修験者や山伏をはじめとした語り手により

伝説として語られる過程で

南祖坊と青龍権現が

七崎観音(正観音)との関係の中で

本地と垂迹として

捉えられて行った

一方で

修験者や山伏ではない

僧籍を持つ僧侶が担い厳修された

法会や祈禱会などの

行法・修法においては

深秘に仕立てられた

次第に則って藩の祈願寺としての

役割を果たす中で

十一面観音立てや

不動明王、愛染明王立ての

ものを使用していたようです。

 

それは永福寺住職で

事相(じそう)の大家とされた

ご住職が残されたものを始めとした

多くの次第の目録から

推察されることです。

 

さらに拙僧(副住職)が

個人的に注目したいのは

康元という年号です。

 

康元は

1256年10月5日から

1257年3月14日までで

当時流行した天然痘を

断ち切るために

災異改元(さいいかいげん)が

なされた鎌倉中期の年号です。

 

『吾妻むかし物語』によれば

永福寺の什物には

難蔵(南祖坊)が書いた

両界曼荼羅があり

裏に難蔵(南祖坊)の名と

康元の年号月日が

記されており

それは惜しいことに

延宝年中(1673〜1681年)に

焼失したとされます。

 

ここでも

康元の年号が見られます。

 

天然痘が大流行した

康元という年号と

南祖坊が関係させられている点は

様々に検討する余地が

あろうかと思います。

 

永福寺が藩の祈祷寺と

位置づけられていたことを

踏まえて考えれば

鎮護国家

藩領安全

物故者供養など

様々な祈りが託されたがゆえの

ことなのかもしれません。

 

伊達藩の重要な寺院である

中尊寺の鎮守に

枯れて朽ちつつある杉が

南部藩の重要な寺院である

永福寺有縁の南祖坊手植えと

伝えられる杉のエピソード。

 

広く十和田湖南祖坊伝説が

知られていたことを

『平泉雜記』から

伺うことができます。

 

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三国伝記について④“最古の十和田湖伝説”と両部曼荼羅

『三国伝記』(さんごくでんき)

巻12第12話の

「釈難蔵得不生不滅事」

(しゃくなんぞうふしょうふめつをうること)

が“最古の十和田湖伝説”とされます。

 

そのことは紀行家であり

多くの文書を残している

菅江真澄(すがえますみ)も

記しておりますし

南部藩関係の文書においても

この話が十和田湖伝説であると

記されております。

 

釈難蔵とは

「仏弟子である難蔵(なんぞう)」の意で

これが南祖坊です。

 

「南祖坊」は表記が様々で

南蔵、難蔵、南祖之坊など

書物によって異なりますが

『三国伝記』では難蔵となっています。

 

「南祖坊」の表記の違いは

音写による訛伝

とも考えられますし

字義において意味が

秘されているとも

捉えられるかと思います。

 

「不生不滅を得る」とは

話の内容を踏まえて説明するならば

「入定(にゅうじょう)」することで

専門的には

「禅定(ぜんじょう)の境地に入る」

ことを意味します。

 

難蔵は播磨(現在の兵庫県)の

書寫山(しょしゃざん)の

法華持者(ほっけじしゃ)と

設定されております。

 

書寫山は

霊峰(れいほう)として

由緒ある修行の聖地であり

多くの伝承に彩られたお山です。

 

書寫山の圓教寺(えんぎょうじ)

というお寺は

西国三十三観音霊場

第27番札所です。

 

当山の本山である長谷寺は

西国三十三観音霊場

第8番札所になります。

 

前回も触れましたが

言両山(ことわけやま)

という山が登場します。

 

十和田湖伝説関係の

研究をみると

言両を「ことわけ」と読み

神聖なるものであるという意味で

捉えられてきたようです。

 

「言両」の二文字は

密教的に深める余地が大いに

あるように思います。

 

言両を「真言両部」(しんごんりょうぶ)

の意味で捉えるならば

一層仏教的(密教的)要素が

色濃くなってまいります。

 

参考までにですが

日本屈指の霊山である

大峯、熊野、金峰山について

大峯は真言両部の峯であり

熊野山は胎蔵曼荼羅

金峰山は金剛界曼荼羅であると

捉えられておりました。

 

両部(りょうぶ)とは

両部曼荼羅のことで

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)と

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)を指します。

 

これらは不二(ふに)なるものです。

 

曼荼羅(まんだら)と

名のつくものは数多くありますが

日本における曼荼羅は

弘法大師空海の影響が大きく

弘法大師が唐より

持ち帰られた曼荼羅を特に

現図曼荼羅(げんずまんだら)といいます。

 

曼荼羅そのものと見立てられたり

曼荼羅の思想がほどこされている山は

日本にはかなり多くあります。

 

『三国伝記』が世に出た時代の

世界観を探ることは

伝説を考える上で

非常に大切なことかと思います。

 

日本の中世は

非常に多くの“神話”が

語られた時代であり

新たな解釈で捉え直されたり

新たに創造された時代です。

 

日本書紀や古事記の

神代の物語も

仏教(密教)的要素を帯び

新たな物語が編み出されます。

 

記紀(古事記と日本書紀)において

あまり触れられていな神に

熱い視線が注がれ

本地仏の関係が見出されたり

インドや中国の神仏との

関係が見出されたり

記紀神話に登場しない神が

鮮やかに登場したりしますが

これらは神仏習合の考えを支える

曼荼羅思想を背景とします。

 

曼荼羅には

大(だい)曼荼羅

三昧耶(さまや)曼荼羅

法(ほう)曼荼羅

羯磨(かつま)曼荼羅

の四種の描き方があります。

 

仏像のような

お姿での描き方

(大曼荼羅)

 

それぞれの尊格が

宿されるみ教えを象徴した

法具などの「物」での描き方

(三昧耶曼荼羅)

 

それぞれの尊格と

根本的な尊格が

宿されるみ教えを象徴した

梵字での描き方

(法曼荼羅)

 

それぞれの尊格が

宿されるみ教えを象徴した

印(いん)での描き方

(羯磨曼荼羅)

 

これらは四種それぞれが

別々のものということではなく

別々の見方をもって

同じものを描いたものです。

 

当山に伝わる

七崎姫伝説や

十和田湖伝説にしばしば見られる

経文の一文字一文字が

剣や矢となり

対峙していたものへ

突き刺さるというストーリーの

背景にもこの曼荼羅の考え方があります。

 

剣や矢は智慧の象徴で

このように

尊格を象徴する「物」を

三昧耶形(さまやぎょう)といいます。

 

このような描写は

後世の大衆化に伴い

「仏教に無知な者」が

創作したという見方があるようですが

仏教的視点からすれば

踏まえるべきことは

きちんと踏まえての描写といえます。

 

三昧耶形としての剣や矢が

煩悩や迷いの状態を象徴する

八頭大蛇(八郎)に突き刺さると

捉えるのであれば

一見“残酷”に見えるこの場面も

み教えを宿した場面となります。

 

近世に創作された物語には

それを創作した方がいらっしゃいますし

そもそも日本の伝統芸能には

多かれ少なかれ仏教が

関係しておりますので

現在語られる所の物語の

諸要素の由来となっている

諸物語の創作者に対して

「仏教に無知」との評価は

失礼にあたるように感じます。

 

仏教に対して

どことなく美徳や善のイメージが

強いのかもしれませんが

現在の一般的な感覚からすれば

残酷と捉えられるようなものが

多々あるのです。

 

少し話を戻しまして

“新たな神話”が編み出されることに

ついても少しだけ触れたいと思います。

 

古事記や日本書紀では

登場してすぐにお隠れになった神や

名前だけが記述される神が

何柱も登場します。

 

中世にはそれらの神々に

記紀では語らていない物語が

神祇にお仕えする方により

語られるようになります。

 

現在に比してとてもシンプルな

『三国伝記』の十和田湖伝説と

多くのキャストと場面で語られる

現在の十和田湖伝説の間にも

同じプロセスが見られます。

 

伝説のみならず

お寺の世界においても

同じ次第書や論書なのですが

古い時代のものより

後世のものの方が

はるかに分量が多かったりします。

 

十和田湖伝説で

「古い時代のもの」といえば

今取り上げている

『三国伝記』のものとなりますが

現在の十和田湖伝説の

核となる部分がそこには

描かれております。

 

それを紐解くにあたり

今回は曼荼羅思想を手がかりに

“最古の十和田湖伝説”を見てみましたが

仏教的切り口は

非常に沢山あります。

 

本文について

いくつかの言葉について

触れただけにとどまりましたが

機会があれば

また紹介させて頂きます。

 

これまで4回にわたり

『三国伝記』について

少しばかり

紹介させて頂きました。

 

仏教的視点を踏まえて

十和田湖伝説を紐解くことで

とても壮大なスケールの

物語がそこにたちあらわれます。

 

今後もちょくちょく

紹介させて頂きたいと思いますので

ご興味をお持ちの方は

ご笑覧頂ければ幸いです。

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七崎観音の歴史を探る

大正十一年に発行された

『三戸名所旧蹟考』附録に

「七崎神社の事 并び圖」として

七崎神社について記述があります。

 

概要の最後に

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

と記されております。

 

白石家も小泉家も

明治以前までは

修験を担っていた

とても由緒ある家柄です。

 

小泉幸雄氏は

『郷社七崎神社誌』を

編集した方でもあります。

 

七崎神社は明治まで

七崎山徳楽寺という寺院で

当山観音堂に祀られる

七崎観音(聖(正)観音)を

本尊としておりました。

 

七崎観音は

白銀に祀られますが

夢告を受けた諸江卿が

七崎(現在の豊崎)に遷座したと

伝えられます。

 

七崎に祀られることとなった

七崎観音は当初

現在の七崎神社の地ではなく

当山から東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたと伝えられます。

 

その場所は

元宮(もとみや)と称して

現在の七崎神社の地に

遷座した後も

旧阯としてお祭りが開催され

神聖な地とされたようです。

 

事細かな記述ではありませんが

今回は七崎神社の概要が記される

『三戸名所旧蹟考』附録

「七崎神社の事 并び圖」

を以下に引用させて頂きます。

 


 

七崎神社の事 并びに圖

一 靑森県陸奥國三戸郡

豊崎村大字七崎字上永福寺

七崎山に鎮座郷社七崎神社といふ

 

祭神

伊耶那美神

 

相殿

大國主神、事代主神、少彦名神

天照皇大神、宇迦之御魂神

熊野神、菅原道真大小二神

 

備考

天照皇大神より四柱は

維新の際谷支村より

合祭せるものなり

 

一 創立の由緒

南部四條中納言藤原諸江卿

勅勘流刑を蒙り漂泊の身となり

階上郡(三戸郡九戸両郡の)

侍濱に着き給ひしに

天長元(824)年二月下旬の頃より

海上一面金色を呈し

夜間海底の鳴動を聞く事

數十日に至る

 

同年四月七日

海上稍穏やかに

浪風静かなれば

卿漁装を整ひ小舟に棹し

沖中に出でて佇み小網を張りて

海鱗を漁獲せんとしに怪なる哉

網重くして容易に揚ることを得ず

 

卿心密かに之を訝り

益々気を皷し勇を撫し辛ふじて

引揚るを得

之れを見給ふに

豈圖らんや異相の霊體にてありき

依て一の小社を新築し

御神體を安置し後ち

承和元(834)年正月七日に至り

霊夢に依り當七崎山に遷幸し奉り

諸江卿 供奉斎仕せり

 

諸江卿の墓所は荒神と奉称し

本社を距る三町餘の場所に祭り

毎年八月十三日に祭典執行せしが

維新の際 廃社となり當社境内に移遷す

 

一 本社庭前に大沼ありて

大蛇住て村民を害する事ありしが

承安年中行海法師當社に来り

丹誠を抽て密法を執行し

遂に之を除去せしかば

沼の水いつとなく絶て

今小泉家の畑地となり

即ち水源に一宇を建立して

水上大明神と祭りたり

 

其の岳蹟を顕存せんが為め

境内に七星の形を取り

七本の杉を植て奉納せしが

其の内三本成長して

現今三丈五尺の周圍あり

又其時一宇の草創を立てたりしが

則 寶照山普賢院と號し

行海法師の開山にして今尚不存せり

 

以上 傳話記に詳かなり

 

因にいふ

十和田山に祭りし

南祖坊(南宗ともいふ)は

この行海法師弟子となり

學びたること十和田記に詳かなり

往古より當社奉仕の別當

毎歳五月十五日交番に参詣せり

十和田山別當より

當社え神饌料として

二百文の靑銅を送附せり云々

 

一 承和元(834)年白銀より

遷宮の當時は長苗代村は

大洋に接し大なる港にして

今の三戸郡下長苗代村小字内港は

大小の船舶泊せしとなり

而して此の七崎山は

七の崎の一つにして

遂に本村の名となりしといふ

 

一 寛永二(1625)年十二月

南部二十七代信濃守源朝臣利直公

神門御造営あり

 

次に二十八代山城守重直公

(七戸隼人といへり)

城主と被為成給ひし時

霊験なりしといふ

明暦元(1655)年九月七日

五石五斗三合の社領御寄附あり

 

次に二十九代重信公

貞享四(1687)年五月廿日

本社御再営あり

 

次に三十二代大膳大夫利幹公

正徳二(1712)年四月

七崎山四ヶ所に古例を以て

殺生禁札建てられたり

 

一 維新前は南部家に於て

維新保護せりと雖も

現今氏子において負擔

大小祭典の費用を救ふのみ

 

一 毎歳舊四月七日は神霊

天長年間海中より出現の古例により

太郎浦邊の黒森と云へる處に

神輿渡御し(黒森の傍らに小沼あり

往古より今に水絶えず)奉り

神楽を奏して祈禱ありしが

當時別當二人

社人十二人ありて

五石宛の免租地を有せしを以て

祭費の支途に苦まざるも

維新以還は變り

氏子の負擔に係るを以て其制を略し

村内字瀧谷迄渡御祭典を執行せり

 

一 當社は地方の古社たるを以て

維新の際 西越村 手倉橋村 浅水村

扇田村 豊間内村の

各村郷社に列せられたり

氏子は扇田豊間内七崎の

二ヶ村とは尤も

祭典費の負擔は

七崎村一ヶ村のみなり

 

一 建物

本社 四間四面 茅葺 壹棟

貞享四(1687)年五月

重信公御再営

 

假殿 二間四面 同 同

天保十四(1843)年

津嶋氏の修覆

 

神殿 二間三間 同 同

寛永二(1625 )年十二月

利直公造営なり

 

神楽殿 二間三間 茅葺 壹棟

天保七(1836)年二月再建

 

荒神社 一間に半間 板葺 同

年代詳からず

 

薬師社 一間に半間 同 同

明治十五(1882)年四月

村中にて再営

 

一 地勢

本社境内の地勢は本村月山と称る

山村の東北裾野に位し

東北は稍低しと雖ども

之を四段に経営し

本社其の最高位に坐し

堂宇の方向も亦低方に

向へるを以て却て風致を

添るが如し

 

一 寶物 社地千三百九十坪

一 神鏡 経一尺に八寸 二面

一 福神の像木造 二體

彫刻無銘年代詳かならず

一 鎗 一筋

無銘古来より傳来

 

以上

 

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

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多くの情報が

散りばめられておりますが

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

についても触れられており

ここでは普賢院開山である

行海(ぎょうかい)大和尚の

弟子であると記されます。

 

様々なバリエーションを持つ

十和田湖南祖坊伝説ですが

行海と南祖坊という

“華々しい”伝説をもつ二人が

師弟として語られる

このストーリーには

ある種のロマンを感じます。

三国伝記について③最古の十和田湖伝説のあらすじ

これまで

“最古の十和田湖伝説”とされる

『三国伝記』巻12第12話

「釈難蔵得不生不滅事」を見る

前段階として

『三国伝記』や撰者・玄棟(げんとう)に

伺える長谷信仰や

十一面観音信仰について

かなりザックリではありますが

触れてまいりました。

 

今回は

“最古の十和田湖伝説”の

あらすじを見てまいります。

 

以下、拙僧(副住職)の拙訳にて

大まかなエピソードを

ご紹介いたします。

 


「難蔵が入定するお話」

 

むかし

播州(現在の兵庫)の

書寫山(しょしゃざん)に

釈難蔵(仏弟子の難蔵の意)

という者がいました。

 

難蔵は法華経という

尊いお経を

とても大切にした

法華持経者であり

修行者でした。

 

即身における

弥勒出世値遇を誓い

読誦、回峰、参詣

怠ることなく

心して精進に

励みました。

 

難蔵が熊野にて

三年の山籠(さんろう)にのぞみます。

 

千日となる夜

御殿から翁が現れ

常陸と出羽の境にある

言両(ことわけ)山に

居住すれば

弥勒出生に値遇できると

告げられました。

 

お告げをうけ

言両山(ことわけやま)へ赴くと

その山は錦の如くに花に彩られ

藍の如くの円池があり

老巨木が生い茂り

奇岩や塊石がそびえる

まさに深山幽谷でした。

 

難蔵は

円池の端(はた)に

草庵をこしらえました。

 

草庵に住んで

法華経を読誦する様子は

まるで仙人の如くです。

 

毎日行われる

難蔵の読経を

18、9歳程の美女が

聴いていました。

 

難蔵は

不思議に思いながらも

日々を過ごしました。

 

ある時

その女性は難蔵に

自身が池の主の龍女であることを明かし

自身と夫婦になって欲しいと

告白します。

 

龍女は自身と夫婦となれば

龍の寿命である龍寿を得て

弥勒出世の値遇という

難蔵の願いも達成されると

難蔵に伝えます。

 

難蔵は

あれこれと深く悩みましたが

龍女と夫婦となることを

決意します。

 

ある時

龍女は難蔵に

八頭大蛇(やずだいじゃ)

のことを告げます。

 

龍女がいうには

この言両(ことわけ)山から

西に三里にある

奴可嶽(ぬかのたけ)の池に

八頭大蛇がいて

その八頭大蛇は

龍女を妻として

一月の上旬十五日間は奴可の池

下旬十五日間はこの池に

住むとのことです。

 

そしてもうじき

八頭大蛇がやって来るので

そのことを心得てほしいと

伝えられます。

 

龍女の言葉を聞き

難蔵は恐れる気配もなく

八巻の法華経を頭に戴くと

九頭龍(くずりゅう)になりました。

 

そして

例の八頭龍(大蛇)が

やって来きました。

 

八頭龍(大蛇)と九頭龍は

七日七夜「食い合い」ました。

 

激しい戦い(食い合い)の末

八頭龍は「食い負け」ます。

 

八頭龍(大蛇)は

大きな身を曳いて

円池(大海)に入ろうとすると

大きな松が生え出て

八頭龍の行方は阻まれました。

 

八頭龍(大蛇)は

威勢尽きて小身になり

本の奴可嶽の池に入りました。

 

八頭龍(大蛇)に

「食い勝った」難蔵は

龍女と共に

言両(ことわけ)山(嶽)に

住みました。

 

今でも

その池の辺りでは

激しい波の響きの奥に

かすかに法華経を読誦する声が

聞こえるといいます。(終)


 

以上が

最古の十和田湖伝説の

あらすじです。

 

深めたい箇所が

多々あるのですが

今回は話の重要な舞台である

「言両山」について

少しだけ触れさせて頂きます。

 

「言」と「両」という言葉は

特に密教では

馴染み深いもので

言両(ことわけ)という名称からは

「真言両部(しんごんりょうぶ)」

という言葉が連想されます。

 

ついでながら

奴可嶽の「奴可(ぬか)」は

糠部(ぬかべ・ぬかのべ)という

地域の名称に由来しているというのが

これまでの「定説」ですが

仏教的意味合いが込められていると

仮定するのであれば

「ナラカ」という梵語に由来して

いるとも考えられます。

 

「ナラカ」は

「奈落(ならく)」と

音写される言葉で

要するに「地獄」を意味します。

 

奴可嶽が「地獄」を踏まえて

設定された“お山”と捉えるならば

八頭大蛇についての検討も

より深いものになるように思います。

 

地獄は八熱地獄と八寒地獄

という「熱」「寒」

各々に八大地獄があるとされます。

 

八頭龍(大蛇)が

この八大地獄に通じていると

考えることも出来るでしょうし

日本神話に登場するヤマタノオロチに

仏教的意味が重ねられているとも

考えることが出来るように思います。

 

ヤマタノオロチでいえば

難蔵は書寫山(しょしゃざん)の者

とされますが

この書寫山は「スサノオの杣(そま)」

とも呼ばれます。

 

古事記や日本書紀の

いわゆる日本神話について

かつての僧侶は深く

学んでおりますので

神仏習合の様相が色濃い

“中世における”記紀神話を

踏まえていたとしても

何ら不思議はありません。

 

言両(ことわけ)山の

話に戻りますが「言両」を

「真言両部(しんごんりょうぶ)」の

意味として捉えるならば

中世における神仏習合思想の

根本を支える考え方である

曼荼羅(まんだら)について

触れなければなりません。

 

この曼荼羅の考え方は

神仏習合思想が台頭した時代の

「国土観」を見る上でも

必要不可欠のものです。

 

今回は

最古の十和田湖伝説のあらすじを

紹介させて頂きました。

 

『三国伝記』の撰者は

仏道に深く関わる玄棟であるゆえ

この書物は仏教やその背景に

ある程度通じていないと

意味を汲み取れないように感じます。

 

最古の十和田湖伝説である

「釈難蔵得不生不滅事」の

文面はかなり仏教的です。

 

それゆえに

文字として記されているものに加え

「仏教的前提」となっている部分にも

目配せしながら

次回も最古の十和田湖伝説を

見ていきたいと思います。

 

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かんのんまいり 高山観音①高山神社

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第4番札所

高山(たかやま)観音。

 

4番札所のある

島守という場所は

十和田湖伝説に登場する

八の太郎(八郎)と

関わりのある場所です。

 

高山観音の御像は現在

高松寺(こうしょうじ)に

お祀りされておりますが

もとは高山神社の場所にあった

観音堂の本尊です。

 

島守は古くより

霊験あらたかな場所とされた所です。

 

高山神社の本殿を目指し

お山を登る道中は

山岳霊場としての雰囲気が

感じられます。

 

高山神社は

イザナギノミコト

イザナミノミコトが

祭神として祀られます。

 

明治の神仏分離令をうけ

四十八社が相殿として

合祀されたそうです。

 

この「島守四十八社の神々」は

八の太郎(八郎)伝説にも

登場する神々です。

 

その伝説の

あらすじですが

川魚を食べた

八の太郎(八郎)は

喉がひとく渇きます。

 

喉をうるおすべく

沢の水を飲みますが

飲めども飲めども

喉の渇きはおさまらず

気がつけば大蛇の身となっていました。

 

大蛇となった八の太郎(八郎)は

川をせきとめて

島守盆地に水をためて

そこに棲もうとしますが

それを良しとしなかった

島守四十八社の神々が

八の太郎(八郎)を

追い出したという物語です。

 

高山神社境内には

不動明王像

毘沙門天像

弘法大師像

金精様なども祀られます。

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かつての七崎山徳楽寺 〜普賢院と七崎神社と永福寺と〜

『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)

という書物があります。

 

これは明治9(1876)年に

国に提出された

青森県の地誌です。

 

この中に

七崎山徳楽寺(現在の七崎神社)の

かつての様子がうかがえる

記述があります。

 

徳楽寺はかつて当山が

別当寺として管理していたお寺で

七崎観音として親しまれた

聖観音が本尊でした。

 

七崎観音の由緒は古く

様々な伝説に

彩られた観音様です。

 

以前ブログにて

七崎観音の由緒の伝説について

触れたのでよろしければ

のぞいてみて下さい。

http://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

 

徳楽寺は観音堂

あるいは新羅(しんら)堂とも

呼ばれておりました。

 

新羅堂と呼ばれるのは

徳楽寺(観音堂)が

新羅三郎義光公を合祀したゆえです。

 

伝えによると

七崎観音は七崎(現在の豊崎)に

遷座された当初は

当山の南にあたる

現在の七崎神社の位置ではなく

当山の東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたとされます。

 

当初の場所は

元宮(もとみや)と称します。

 

そこから現在の七崎神社の位置に

遷座されたわけですが

その年代は不明とされます。

 

元宮については

今回紹介する文章でも

触れられております。

 

南の方角は

観音様を象徴する方角でもあり

伽藍やお堂の配置にも

曼荼羅思想を通わせる伝統がある

密教の視点からすれば

そういったことも踏まえて

元宮から現在の七崎神社の地に

七崎観音を遷座して

七崎山徳楽寺(現在の七崎神社)

が整えられていった

と考えることが出来ます。

 

毎年9月7日は

七崎神社の秋の大祭です。

 

豊崎小学校・中学校の生徒による

七崎神社奉納相撲大会が

神社境内にて行われておりましたが

少し前より会場は小学校に変わり

日程も大祭の日ではなくなりました。

 

だからというわけではありませんが

この秋の大祭の日にあわせて

七崎神社の歴史に触れることも

意味のあることかと思います。

 

七崎神社の歴史を見ることは

徳楽寺(現在の七崎神社)と

永福寺と普賢院の

歴史を振り返ることでもあります。

 

ちなみにですが

「普賢院開基」とされる

行海(ぎょうかい)大和尚は

全国行脚をしていて

この地に立ち寄られた際に

現在の七崎神社の地が

霊験あらかたであり

修行にふさわしいとして

北斗七星の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

北斗七星は仏道では

息災(そくさい・平和の意)の

象徴でもあります。

 

今なお

七崎神社でそびえる

大杉の3本は

7本のうち生き残ったもの

とのいわれがあります。

 

また行海大和尚は

村人を苦しめていた大蛇を

“改心させた”所

村人に大変感謝され

この地にとどまるように懇願され

お寺が建立されたとの伝説があります。

 

これらの伝承を踏まえるに

永福寺の後に

当山を引き継ぐことになる

「普賢院」というお寺は

もともとは現在の七崎神社の方面に

あったようにも思われます。

 

火災により古文書が

焼けてはいるのですが

“元祖普賢院”は永福寺の門前に

あったのかもしれませんし

七崎神社の地に

あったのかもしれませんし

全く別の場所に

あったのかもしれませんし

現在のような伽藍が整ったお寺ではなく

修験者と同じ様に

平屋の建物に「普賢院」を名のって

この地に住まわれたのかもしれませんし

様々に想像は膨らみます。

 

『新撰陸奥国誌』には

七崎村(現在の豊崎町)に

ついての記述があります。

 

少し長いですが

翻刻された資料があるので

引用して紹介させて頂きます。

 

引用中の色分けですが

オレンジは修験者や徳楽寺を含む

当山に関連するもので

グリーンは徳楽寺の行事です。

 

引用にあたって

丸括弧の部分は

引用文献における

注意書きです。

 

角括弧のものは

語句を足した部分と

読み仮名をふった部分と

原文が間違っていると思われる箇所を

訂正した部分です。

 

『新撰陸奥国誌』は

お読み頂ければ分かるように

地域の方への「聞き取り調査」

を交えての地誌です。

 

これまあくまでも

明治初期の地誌なので

汲みきれていない部分もありますが

“当時の感覚”が

垣間見える貴重なものです。

 

徳楽寺時代の七崎神社は

一体どのような所で

いかなる行事があったのかなど

この引用を通して大まかに

感じて頂けるかと思います。

 

細かな内容については追々

説明させて頂きたいと思います。

 


七崎村

【中略】

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

堂は悉皆国知の修営にして

山城守重直

(始三戸に居り后盛岡に移る)

殊に尊信し

五百五石五斗三升三合を寄附し

繁盛弥益し

盛[岡]の永福寺 別当し

当所には普賢院を置き

外に修験 善覚院 大覚院

社人十二人 神子一人

肝煎等の者まて悉く具り

普賢院に十五石

善覚院に五石

大覚院に五石三斗

社人 神子 肝煎 各五石を分与し

 

明治元年以前は

毎月十八日 湯立の祈禱あり

 

正月七日◻丑の刻 護摩祈禱あり

 

三月 鳴鏑の祈禱あり ヤフサメと云う

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所ありて

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

 

五月五日は四十八末社御山開と

唱える祈禱あり

(今末社は彊内に十二社を存す

当時は在々の山間等

数所にありと云う)

 

八月六日より十二日まで

荒神祭とて四条諸江郷の祭あり

 

同十三日中の祭と唱て

五月端午の祭と同式あり

 

同十七日 観音堂大法会あり

 

九月五日 御留の祭と云て

五月五日の祭と同じ祭あり

 

十二月十七日 年越しの祈禱あり

 

此の如く厳重の法会を

修行し来りたる

奇代の古刹なりしに

何故に廃除せしにや

 

明治三年 神仏混淆仕分の節は

三戸県管轄にて

県より廃せられたりしにて

元来観音を祭りし所なれは

神の儀に預るへき謂れなく

村民の昔より

崇め信せる観音なれは

旧貫を痛願なしけれとも

 

了に仏像は元宮と云て

壊輿祭器を納め置く所に

安置すへきに定れり

 

元宮は

往古草創せる旧阯にして

永福寺より南に当り一丁

(字を下永福寺と云う)

一間半四方の堂あり

(東に向ふ)

破壊に及ひしかは

修覆中は仮に

旧社人 白石守か家に安す

 

観音堂は元より

神社の結構に異なるを

廟殿の備もなく

仏像を除て其ままに

神を祭れはとて

神豈快く其の斎饌を受へけんや

 

この廃除せる根源は思に

仏子の徒僧衣を褫て復飾せんと

欲するに外ならす

 

左[右]件の古刹を壊て

神の威徳を汚蔑すかの

小児輩土偶人を配置して

戯弄するに異ならす

 

昔は仏子の度牒を受けて

律を壊る者は還俗せらるる

布令なりけれは

一たひ仏子たるもの

還俗するは

罪人と同く

仏子甚厭ひたりしと

◻◻の如く異なれり

 

社人の伝て

観音は正観音なと云伝れとも

形丸く径五寸厚二分の板銅にて

像は高出たるものにして

十一面観音の容に見ゆ

然れとも旧年の古物

形像定かに弁へからす

 

旧数枚ありし由なりしか

正保の頃にや天火に焼し時

多消滅し全体なるもの

僅に一枚を存す

缺損たるものは数枚ありと云う

 

言か如んは則

御正体と称する古代の物にて

神仏共に今世まま存す

社人其何物たるを知らす

神祭豈難からすや

 

然るに里人

又七崎神社由来と

云ことを口実とする

 

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナギノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれり

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

其文に

【棟札の文言は省略します】

とあれは証としへし

 

又遙后の物なれとも

封 奉寄附七崎山聖観世音菩薩

右に安永四乙未年

左に四月七日

別当善行院と■付し灯籠あり

 

旧神官小泉重太夫か祖

初代 泉蔵坊と云るもの

元禄中 別当職となり

大学院 正学院 正室院等あり

 

十一代大学院

明治四年正月復飾し神職となり

小泉一学と改め

子 重大夫嗣

同六年免す

 

同 白石守か祖 

初代 明正院 承応中 別当となり后

行学院 善正院 善光院 善行院

善覚院 善教院 善道院 善明院等あり

 

十五代の裔

善行院 明治四年正月

神職に転じて白石守と改め

同六年免せらる

 

祠官兼勤五戸村稲荷神社新田登

 

寺院

普賢院(境内四百八坪)

支村永福寺の西端にありて

旧観音堂の別当なり

 

大和国

式上郡長門寺小池坊末寺真言宗

宝照山と号す

 

建仁中の建立の由伝れとも

往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年辛酉十一月

快伝と云る僧の中興なりと云り

 

本堂

東西六間南北七間

本尊は愛染明王 東向

 

【以下、省略】

 

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〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

(みちのく双書第19集)

pp.22-30。

糠部五郡小史に見る普賢院

明治36年に出版された

『糠部五郡小史』という書物があり

今に多くの歴史を伝えております。

 

明治期は国家をあげての

一大変革期であり

それは「宗教」においても

同様でした。

 

この時期には

寺社仏閣の「歴史」の「見直し」

あるいは「再編成」が行われました。

 

明治・大正に編纂された

地誌や歴史書は多く

今では翻刻されているものも増えました。

 

寺社仏閣の縁起や由緒は

きっちりとした文書として

現在にいたるまで

代々継承されているケースは

とても稀といえます。

 

当山もしかりで

火災により古文書の類は焼失しており

永福寺にしろ

普賢院にしろ

徳楽寺(現在の七崎神社)にしろ

明確な“史実として”の由緒は不明です。

 

ついでながら大切なことなので

触れさせて頂きますが

“史実として”ということ以上に

寺社縁起では

神仏や権現・権者に仮託されて

編まれることが多いです。

 

例えば

東北地方における

寺社縁起では

坂上田村麻呂将軍伝説

慈覚大師伝説

聖徳太子伝説などが

各所で見られますが

これを史実か否かという視点だけで

紐解こうとすると

本来的な意味合いや

そこに託されたおもいを

汲み取ることは難しくなります。

 

現在でもそうですが

寺社縁起の類は

口伝として伝えられる所が多く

明治・大正期の書物からは

江戸末期頃までに

どのような縁起・由緒として

捉えられていたかを

垣間見ることが出来ます。

 

『糠部五郡小史』に見られる

普賢院の由緒について

紹介いたします。

 

諸説伝えられる所の一説です。

 

以下、引用です。

※西暦は引用者です。


 

寶照山普賢院は

豊崎村大字七崎字永福寺にあり

眞言宗大和國式上郡

初瀬村長谷寺末にして

開基は承安元(1171)年十一月

行海法師の開山なり

 

本尊は愛染明王

脇立左右 不動明王

傍ら七崎観音を祀る

 

寛永二(1625 )年十二月

二十七代南部利直公

祈願處とせられたり

 

本堂 八間に六間

庫裡 五間半に三間半

 

鐘楼は壹間半四面

梵鐘 壹釣

 

寶物 鏡一面 日の丸形

藤原光長の作にして

径四寸九分 量五十九匁

 

扁額 一丈三尺六寸 巾一尺五寸

東都 三井親孝の書とあり

文化十三(1816)年

菊池武群寄附

掛物一軸は狩野休伯の書

傳来詳らかならず

 

境内六百五坪なり

 

略縁起

抑 当山の由来を尋るに

承安元(1171)年十二月

行海法師 本村に回歴す

 

其時に際し

七崎神社境外に三つの沼あり

大蛇之に住み

屢々村人を害し

法師之を聞き

心窃に其惨状を恤み

同社に詣でて身を以て

犠牲となし

釈法秘術を行ひ

精魂を盡す祈念する事三週日

大蛇終に退滅す

 

法師袖を拂て去らんとす

 

村民愛慕

之を止る事切なり

 

法師去るに忍びずして

茲に草庵を営み住す

 

当山の開始是なり

 

后二十有余年

村中の追福を祈り

九十九歳にして歿せり

 

故に一旦衰頽に帰したるに

寛保元(1741)年十一月

名僧 快傳法師

回歴し来り其の偉蹟を

滅せんことを憂ひ

留住して再興を計れり云々


 

行海法師は

現在の七崎神社の地に

杉を北斗七星の形に植えたと

伝えられます。

 

そして7本のうち残った3本が

七崎神社の大杉であるとされます。

 

ある伝えでは

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)は

行海の弟子であるともされます。

 

またもう一人名前が登場する

快傳(かいでん)という方は

当山を中興(ちゅうこう)した

偉大な方です。

 

今回見てきたような縁起・由緒は

仏教的意味のあるものとして

捉えることが出来るものですし

お寺としては

意味のあるものとして

お伝えすべきものだと

感じております。

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三国伝記について②長谷信仰・十一面観音信仰と三国伝記

『三国伝記』(さんごくでんき)は

“最古の十和田湖伝説”が収録されます。

 

『三国伝記』は

室町時代のもので

全12巻からなり

360話が収録されます。

 

撰者は玄棟(げんとう)という

沙弥(しゃみ:修行者)で

インド、中国、日本の三国

それぞれ120話で合計360話の

物語を様々な書物からの引用を

行いつつまとめております。

 

日本についての120話のうち

当山の本山

長谷寺の霊験譚である

『長谷寺験記』(はせでらげんき)関係の

説話は12話にも及びます。

 

『三国伝記』において

一寺院の説話として

日本にまつわる話全体の1割もの

引用がされるのは長谷寺だけです。

 

長谷寺のある地は

泊瀬(はつせ)ともいわれ

古事記にもその名が登場します。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は長谷寺式(はせでらしき)

といわれるお姿の十一面観音で

盤石(ばんじゃく)という石に立ち

右手に錫杖(しゃくじょう)を持ちます。

 

盤石は不動明王の徳をあらわし

錫杖は地蔵菩薩の徳をあらわします。

 

長谷の十一面観音は

古くから篤く信仰された尊格で

十一面観音信仰は奈良時代には

盛んであったそうです。

 

また『三国伝記』撰者である

玄棟(げんとう)は

近江の善勝寺(ぜんしょうじ)に

ご縁のある方です。

 

『三国伝記』に収録される

近江の善勝寺の縁起によると

お寺を開いたのは

聖徳太子の血縁である良正上人で

この善勝寺本尊は

弥勒菩薩(みろくぼさつ)と

聖徳太子作の十一面観音とされます。

 

玄棟自身が十一面観音と

縁深い方であったと思われます。

 

さらに近江という場所自体が

長谷寺と深く関わる地であり

長谷寺本尊の十一面観音像は

琵琶湖にあった

巨大な霊木(楠)を彫ったものです。

 

日本最古の観音霊場である

西国三十三観音霊場の

発祥の地は長谷寺です。

 

長谷寺と名のつくお寺は

全国に多くありますが

その「総元締め」が

奈良の長谷寺です。

 

十一面観音の信仰は

東北においても古くから

伝わっていたようで

三戸の南部町にある

恵光院(長谷寺)の十一面観音は

平安時代の仏像で

青森県内では最古のものです。

 

三戸でいえば

三戸永福寺を引き継いだ

永福寺自坊の嶺松院(れいしょういん)が

あった場所に現在ある

早稲田観音も十一面観音です。

 

当山は永福寺発祥の地であり

現在は地名のみが残っておりますが

その創建に関する説話が

『長谷寺験記』にあり

それも十一面観音のお話です。

 

それは坂上田村麻呂将軍が

奥州に十一面観音を祀るお寺を

6ケ寺建立したとの説話であり

永福寺の寺伝によればそのうち

田村の里・七崎(現在の豊崎)の

お寺が永福寺であるとされます。

 

この類の話は県内他所にも見られ

例えば深浦町の古刹である

円覚寺(真言宗醍醐派)も

坂上田村麻呂将軍が

聖徳太子作の十一面観音を安置し

観音堂を建立したとの

いわれがございます。

 

円覚寺を開基された

円覚という方は

大和(奈良)の方です。

 

『三国伝記』には

十一面観音についてのみならず

瀧蔵権現(りゅうぞうごんげん)

天満天神(てんまんてんじん)など

長谷寺にまつわる神祇(じんぎ:神さま)の

話も収録されており

長谷信仰の影響が感じられます。

 

『三国伝記』は

インドの梵語坊

中国の漢字郎

日本の遁世者の3名が

京都の清水寺にて

応永14(1407)年の

8月17日(観音縁日の前夜・逮夜)に

観音さまに捧げる法楽(ほうらく)として

一人ずつ話をしていくという

場面設定となっております。

 

京都の清水寺は

観音様のお寺であり

本尊は十一面千手千眼観音で

観音様をとても篤く信仰した

坂上田村麻呂将軍ゆかりのお寺です。

 

あちこちに話題が飛びましたが

『三国伝記』において

長谷信仰・十一面観音信仰の関わりが

見られるということを見てきました。

 

話題を

十和田湖伝説に移したいと思います。

 

『三国伝記』巻12第12話の

「釈難蔵得不生不滅事」という説話が

“最古の十和田湖伝説”とされます。

 

次回はこの「釈難蔵得不生不滅事」を

見ていくことにします。

 

▼『三国伝記』について①

http://fugenin643.com/blog/三国伝記について①/

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