南祖坊伝説の諸相⑩ 南祖坊御成(おなり)の部屋

八戸市図書館所蔵の

文政12年(1829)

『十和田記 全』(十和田山御縁起)

という近世の写本には

南祖坊や八郎の来臨に際して

部屋を用意するという

エピソードが掲載されております。

 

南祖坊の来臨には

「十和田山の御間」

「十和田様の御間」(永福寺にて)

八郎(八郎太郎、八の太郎)の来臨には

「八竜大明神の御間」(潟屋伊左衛門家にて)

の一間(ひとま)が用意され

七五三縄(しめなわ)が

張られたと

『十和田記 全』には記されます。

 

いずれのエピソードでも

「彼岸」の時季に

触れられております。

 

今回は「十和田山の御間」に

言及している同書の

「御縁起見る心得のケ条覚」

という所をとりあげます。

 

この部分はこの写本の書写者が

同書を見る際に心得を

項目立てて

それぞれケ条毎に

説明したもので

今でいう書籍の註釈の

ようなものです。

 

各心得(註釈)を見るに

『十和田記 全』の書写者は

とても誠実な方で

写本を書写するにあたり

地名や関係する事柄について

丁寧に調べていらっしゃいますし

神仏への畏敬の念をもち

謹んで取り組まれたことが

伝わってまいります。

 

写本ついででいうと

当山には

『十和田山神教記』の写本が

2冊ございます。

 

『十和田記 全』と

『十和田山神教記』には

“写本の限界”ともいうべき

点への言及も見られ

注目すべき重要な箇所と考えます。

 

“写本の限界”については

機会を改めて

述べさせて頂こうと思います。

 

では話を戻して

『十和田記 全』にある

「御縁起見る心得のケ条覚」の

「十和田山の御間」が登場する

部分を以下に引用して

その後に大まかな

内容紹介として

「拙訳」を記させて頂きます。

 

※引用にあたり

小舘衷三氏の

『十和田信仰』(昭和63年、北方新社)

に資料として翻刻されている

ものを使用して

適宜書き下しをしました。


 

盛岡永福寺

古き伝え話に云(いわ)く

十和田山青龍大権現

昔の宿縁 有事にや

今も永福寺へ春秋の

彼岸中日の内には

御越(おこし)有よし。

 

よって永福寺に

十和田山の御間とて

一と間(ひとま)あり。

 

真言七五三(しめ)を張

常に人の御入を禁じ

〆切置候よし。

 

人躰にて御越(おこし)の節は

永福寺法印

罷出(まかりで)て

謁し奉る。

 

竜躰にて御越(おこし)の節は

寺中殊の他

慎居候由(つつしみおりそうろうよし)。

 

尤(もっとも)

人躰竜躰にて御越にかかわらず

膳部(ぜんぶ)供は

差上(さしあげ)候よし。

 

但し時々の住僧の

新正(しんせい)行ひによって

御越の有と無とあるよし。

 

爰(ここ)に一つの話あり。

 

中古の事の由

永福寺法印に名僧ありしに

例の通(とおり)十和田様

ある年の彼岸に

御越ありけるに

この法印覚悟の印を結び

十和田様の御間に入

尊躰(そんたい)を拝し奉り

夜(よも)すがら法語を問い奉りしに

 

十和田様仰申(おうせもうす)は

我々今

如斯(かくのごとく)してある事

恋しくうらやましくおもふべし。

 

必々おもふ事なかれ

 

御教文(おきょうもん)の

おもむきをつとめ

よこしまなく

天命を保(たもた)なば

後には神とも仏とも成ぬべし。

 

弥勒(みろく)の出世を待

我々の勤(つとめ)

昼夜幾度といふ勤あり

其苦痛(そのくつう)

中々凡夫の今おもふ心にて

浅くも勤まる事にあらず

 

其時(そのとき)其苦痛を

いとふ時は何百何千年経るとも

破戒(はかい)に落入べし。

 

最早(もはや)

深(ふかくして)更にも及びぬ。

 

我も其身の

勤行(ごんぎょう)にかかる也

おふせられ

法印退かしめ

それぞれに御間を〆させ

透見(すかしみる)等は

◻る御禁(おとど)めあり。

 

しつまり給ふ。

 

法印は我常の眠蔵(めんぞう)に

引取(ひきとり)けれども

通夜をして信心をこらし

禅座をなして

御座(おすわり)なされけるに

十和田様御苦しげなる御声にて

暫(しば)しが程

煩わせ給ふ様子

御かげにて

法印 伺ひ奉るさえ

消入(きえいる)ばかりに

おぼしめしける事にてはなし

御出(おいで)も御帰りも

住持法印の他は知る人

更になき事と云(いえ)り。

 

今も絶ず御出(おいで)のよし。

 

是等の次第も

永福寺の縁起になるべし。

 

此寺の住職に付て

尋ね問ひもとむべき事とぞ。

 

神に祝われ給ふ。

 

御上(おかみ)にさえ

かやうに辛苦の御勤(おつとめ)あり

有難き大悟のおん事ならん。

 

必ず等閑(とうかん)に

聞べからずと也。

 


【大雑把な拙訳】

十和田山青龍大権現は

南祖坊の頃に修行した

宿縁のある永福寺へ

今でも春秋彼岸の中日に

(または中日までの間に)

おいでになられるため

永福寺には

十和田山の御間という

一間(ひとま)がある。

 

その一間には

真言七五三縄を張り

常に人の出入りは禁じられ

しめきられた。

 

人の姿かあるいは

龍の姿でおでましになる。

 

しかも

いらっしゃるか否かは

その時々の僧侶の

正月の「行い」に左右

されるという。

 

大雑把に意訳すれば

そのようなことが記され

次に重ねて

南祖坊来臨のエピソードが

述べられます。

 

ある年の彼岸に

南祖坊が来臨した際に

永福寺の法印が印を結び

十和田山の御間に入り

南祖坊を拝したのち

一晩中法語を問うた。

 

すると南祖坊は

おっしゃった。

 

私たちがこのように

対面して求法に応じるなど

していることは

羨望される所だろうが

そのような心を

抱くことはお止めなさい。

 

み教えの意味意図する所を

しっかりと励み

ひとときひとときを

大切にするならば

いずれ「神」にも「仏」にも

成ることが出来るだろう

(尊い道を成就出来るだろう)。

 

経文に記される所の

釈尊入滅の後

56億7千万年の後に訪れるとされる

弥勒菩薩の出世を待つ

私たちには昼夜に

いくつものお勤めがある。

 

はるかかなた先に

目指す所の時間軸がある

私たちが

そのお勤めを成すことで

おのずと伴う苦労や苦痛は

今現在と主に向き合う

凡夫の心では

勤まるものではない。

 

その苦痛が受け入れられず

嫌悪するならば

何千年たとうが

破戒の境界に深く陥っているので

修行が成就することはない。

 

私も弥勒の出世を待ち

勤行に励む身なのだ

と南祖坊はおっしゃられ

永福寺の法印を

十和田山の御間から

退出させて部屋を閉めさせ

内部を見ることを

禁じさせた。

 

静かになり

法印は寝室へ戻ったが

寝ることなく通夜して

瞑想に励んだ。

 

すると

南祖坊の苦しげな声で

しばらくの間

もだえていらっしゃる様子が

法印にはその影によって

伺われたが

次第に消えていった。

 

ちなみに南祖坊の

御越も御還も法印以外で

知る者はいないという。

 

これらのことは

永福寺の縁起に

まつわるものなので

永福寺住職に

尋ね求めるべきである。

 

神(青龍大権現)の

御利益・加護があるだろう。

 

天皇にも

辛苦を伴うような

お勤めが毎日ある。

 

とても有り難い

大悟の浄行である。

 

いいかげんな

気持ちで聞くべからず。

 


 

入室独参(にっしつどくさん)

という言葉があります。

 

仏教の辞典では

「師家の室にひとりで入り

親しく参問すること」と

説明されますが

今回とりあげた

「十和田山(様)の御間」での

南祖坊と法印のやりとりは

まさに入室独参といえます。

 

南祖坊は

昼夜の幾つもの「勤め」に

言及しており

自身も弥勒出世までの長い間

苦痛を伴いながら「勤め」を

なしている様子が記されます。

 

ここで南祖坊は

永福寺法印に「法」を教授する

先師や阿闍梨(あじゃり)として

描かれているように感じます。

 

彼岸の中日のうちに

南祖坊がおいでになるという

「十和田山(様)の御間」は

結界され〆切られて常時

人の出入りも禁じられたとの

描写についても

灌頂(かんじょう)や大会(だいえ)

といった具体的な儀式の空間や

荘厳(しょうごん)の作法に加え

様々な節目に用いられる

大小の諸作法が

着想となっているように

思われます。

 

今回引用した部分についても

深められる所が多々ありますが

この辺で留めさせて頂き

別の機会にまた

触れさせて頂きます。

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