七崎から盛岡へ移る永福寺

江戸時代の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

文化4年夏の紀行文である

『十曲湖』(とわだのうみ)で

当山の歴史について

触れられております。

 

『十曲湖』には以下のように

記されております。

 


 

森岡の盛岡寶山永福寺ハ

新儀の真言にて

大和の國

初瀬の小池坊の流れにて

むかしハ五戸の七崎よりうつせり

 

いまも永福寺村といひ

そこに観世音の堂あり

 

これを永福寺ともいへり

 


 

菅江真澄は

『十曲湖』の約20年前に

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

という紀行文も著しており

そこでも十和田湖伝説を

紹介しております。

 

両著作を比較すると

『十曲湖』の情報量は格段に多く

広く情報を集めたことが

よく分かります。

 

引用文で盛岡永福寺に

触れておりますが

正確には盛岡永福寺の山号は

宝珠(ほうしゅ)盛岡山です。

 

「新儀」という部分も

正確には「新義」となります。

 

菅江真澄は

盛岡永福寺は

七崎(現在の豊崎)から移したと

伝えておりますが

これは当山で把握している

由緒と同内容となります。

 

つまり

盛岡に永福寺が改められることになり

普賢院が永福寺自坊として

旧地である七崎永福寺を

引き継ぐことになったわけです。

 

永福寺は三戸にも伽藍を構えます。

 

その三戸永福寺は

盛岡永福寺の建立にあたり

嶺松院(れいしょういん)が

永福寺自坊として引き継ぎます。

 

自坊というのは

いまでいう別院と

お考え頂ければ分かりやすいかと思います。

 

ちなみに自坊に対しての

盛岡永福寺は本坊という位置づけです。

 

菅江真澄はさらに続けて

七崎から盛岡へ永福寺が移った後の

今も永福寺村といい

永福寺村には観音堂があって

これを永福寺ともいうと

記しております。

 

現在も当山周辺の地名は

「永福寺」となっており

当山は現在普賢院という寺院名ですが

「永福寺」とも呼ばれております。

 

お寺の呼び名というのは様々で

現在の当山は

永福寺とも呼ばれれば

七崎のお寺さんとも呼ばれますし

七崎観音のお寺

十五番札所のお寺とも

南祖坊のお寺などなど

一様ではありません。

 

そういったことが

かつてもあったようで

観音堂もまた永福寺とも

呼ばれていたと

菅江真澄は伝えております。

 

この観音堂には

現在当山にお祀りされている

七崎観音がお祀りされておりました。

 

観音堂は七崎山 徳楽寺という

寺号を授かる程の

とても立派なものとなり

当山が別当寺をつとめておりました。

 

観音堂は明治になり

七崎神社になります。

 

そこに祀られていた

聖観音は現在

当山本堂内の観音堂に

七崎観音としてお祀りされております。

IMG_8314

IMG_0349

▼七崎神社(旧 観音堂・七崎山徳楽寺)

IMG_8327

IMG_8331