稀代の古刹 七崎観音⑩

当山観音堂に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

起源は平安初期にまで

さかのぼります。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日にのみ

御開帳され

その御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は「おこもり」と

通称され本年は

2月21日に行われます。

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平安時代より現在に至るまで

戦乱の世があり

幾多の災害があり

あまたの困難がありました。

 

長い歴史があるということは

それらとしっかり向き合い

時代時代において

対応してきたことを

意味するといえます。

 

当山は前身である永福寺時代より

七崎観音の別当をつとめておりますが

歴代先師のご尽力は

切なるものがあります。

 

災害でいうと江戸期はまさに

“災害の時代”でもあります。

 

江戸期に限らず

日本は昔から“災害大国”といえる程

深刻な事態の連続でした。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

旧・観音堂にお祀りされておりました。

 

『寺社記録』という

南部藩史料の

安永年間の記録には

旧・観音堂の災禍について

伺える記述があります。

 

以下に

安永8年(1779)

9月の記録を

少しだけ引用してみます。

 

※カッコは拙僧(副住職)の補足です。


 

(安永8年(1779))

九月十二日

 

一 永福寺

預五戸七崎村観音堂並二王門

共ニ先代住(永福寺52世・宥恕)

宝暦十三年(1763)

委細之申上

萱葺(かやぶき)修繕等仕候所

其後両度大地震ニて

本堂二王門共ニ

屋根以外之他損

猶又取繕仕置候得共

次第内通えも朽入

別て二王門等

夏中大雨之節

屋根一向相潰(あいつぶれ)

両所ともニ最速

其侭(そのまま)に

可致置様無之躰ニ御座候間

当年より来春迄

如何様ニも修復仕度念願御座候

 


 

次に安永9年(1780)

2月の記述を

見てみましょう。

 


 

(安永9年(1780))

二月三日

 

一 永福寺

五戸御代官所

七崎村観音堂並二王門

慶安四年(1651)

山城守様(南部重直)御建立

其の後元禄年中(1688-1704)

当寺先住 清珊(永福寺36世)代

再興修理等仕

宝暦十三年(1763)

先住宥恕(永福寺52世)委細之儀申上

萱葺(かやぶき)修復

末社迄再興仕候処

右本堂並仁王門

明和年中(1764-1772)大地震之節

殊之外まかり出来

屋根共相損

段々取繕候得共

弥増大大破罷(まかる)成

 


 

これらの引用中で

地震に触れられていますが

明和5年(1768)9月8日と

明和6年(1769)7月12日に

八戸は大地震に見舞われております。

 

明和年間には

津軽でも雪の時季に

大地震があり

甚大な被害を被ったそうです。

 

先の引用文は

大地震により

お堂がかなり傷んだことを

伝えております。

 

明治34年の文書で

『興隆講規則』というものが

残されております。

 

興隆講(こうりゅうこう)とは

明治初頭の神仏分離ならびに

廃仏毀釈の風潮の中で

“荒廃”した七崎観音を

復興させるべく

当時の当山住職はじめ

当山総代や旧社人

さらに賛助人として

神社宮司(旧・善行院)が

設立した講(組織)です。

 

当山と

七崎(現在の豊崎)の方々が

手を携えて七崎観音を

復興させようとしたものと

いうことが出来るかと思います。

 

『興隆講規則』には

「七崎山観音祭り日」として

初祭 正月七日

春祭 四月七日、八日

秋祭 八月十七日

御年越 十二月十七日

と記されております。

 

その他にも

六斎日や功徳日

さらに護摩の日程や

会日(講の開催日)についても

記されており

『興隆講規則』自体が

七崎観音の手引きの役割も

担っております。

 

「興隆講規則設置趣意書」

という箇所があるのですが

ここは僧侶が唱える

表白(ひょうびゃく)という

尊い文言の仕様になっており

当山や七崎観音の

由緒について触れながら

興隆講設立への経緯が

恭しく述べられております。

 

以下に趣意書を

引用させて頂きます。

 


 

恭しく按ずるに

我邦人皇三十四代推古天皇

篤く三宝を敬い

其往昔大聖仏世尊輪王の

宝位を脱履し

世間出世間の大医王となり給い

諸の国王の為に

仁王般若仏母明王不空羂索経等を

説き給い

七難を摧破して四時を調和し

国家を守護して

自他を安ずるの大法

ひとつも欠漏あることなし。

 

降て

天長年間(824-834)に至り

当七崎山蘭若においても

金剛頂経大日経等

最上乗甚深の秘法を行えり。

 

爾来

円鏡(当山開創(弘仁初期(810)頃))

月法(当山二世、南祖坊の師)

行法

行海(当山開山(承安元年(1171)))

宥鏡

快傅(当山中興開山(江戸中期))

達円

快翁

宥敞

宥青等

凡そ八拾有ニ世の間

領主の祈願道場たり。

 

殊には南部二十八代

源朝臣重直公

深く正観世音を信仰し

かたじけなくも

御高五百五石五斗三合の

知行を喜捨せられ

加うるに十二社人を置き

毎月神楽を奏し奉りしは

ひろく世人の知る所なり。

 

然るに維新に際し

封建の制を廃せられ

版籍悉く返上の結果

遂に之が保続の資を失い

従って神楽も絶亡すること

ここに三十三年を経ぬ。

 

嗚呼、世の移り行くは

人力の得て止むべからざるもの

とはいいながら

かく伝来の霊位を

寺院の一隅に奉置し

絶えて法楽の道を

欠きしこと畏くも亦憂たてけれ。

 

ここを以て

郷人の愁歎限りなく

涙を止むるに由なし。

 

先師宥浄

しばしばこれを忌歎し

再興を企つといえもの

時機未だ熟せず

わずかに院内に小堂を営み

霊位を安置せしのみにて

遂に去る戊戌(明治31年(1898))

卯月九日を以て遷化す。

 

月を越えて小童

過て重任をこうむり

庚子(明治33年(1900))

臘月に至り若干の法器を整い

檀徒総代と謀りて旧社人を集め

之が再興の方法を議し

講を設けて興隆講と称し

明る辛丑(明治34年(1901))

正月二十八日を初会とし

神楽に替うるに

本尊護摩を修し奉り

宝祚無疆

玉体安穏

十善徳化

四海静謐

風雨順時

五穀豊穣

疫病退散

正法興隆を

精祈せんと欲す。

 

伏してこう

十方善男女諸氏

この機に乗じて

生等の徴志を賛し

三宝を帰依し

入講の栄を賜い

益々本尊の威光を増揚し

一指まちまちなる信仰を列ね

五指堅固にして遮那覚王の

金挙に擬し

以て彼の迷邪を破壊し

正法に導き

貴賤を問わず

男女を論ぜず

同体大悲を旨として

大徹悟入の床に遊び

ともに補陀落の浄刹に至り

一切の功徳を具足し

二世の勝益祈られんことを。

 

明治三十四年(1901)陰暦正月

金剛仏子 隆真

敬白

 


 

僧侶であれば

馴染みのある文言ですが

多くの方には

かなり読みにくいかと思います。

 

ですが何となく

大まかな内容は

捉えられるかと思います。

 

七崎観音の復興を切願して

講が設立されたことが

伝わってまいります。

 

少し話は変わりますが

ここでは当山開創である

円(圓)鏡上人から

数名の先師があげられた後

八拾有ニ世の間」と

書かれております。

 

現在の当山住職は

「第64世」として歴代住職に

列ねられておりますが

現在の数え方は

大正5年に亡くなられた

宥精師が自身を60世として

以後代を重ねるよう

方針を定められたので

それに則り現在は数えております。

 

ですが『興隆講規則』が作られた

明治時代までは

現行のものとは別の数え上げが

なされていることが分かります。

 

明治までの数え上げを

現在に適応して

当山先師の墓誌をなぞると

現住職の泰永僧正は

第91世」になります。

 

現行の数え上げは

当山開山の行海上人からのもので

明治までの数え上げは

当山開創の圓鏡上人からのもの

かもしれません。

 

歴代先師の中には

「第〜世」と数え上げられない方も

いらっしゃるので

その方々を数えるか否かという

ことなのかもしれませんし

行ったり来たりということも

あったようなのでそのことが

関係しているのかもしれません。

 

その真相を判明させる術は

ありませんが

要するに歴代住職の数え上げは

一通りではないということです。

 

時代時代で

様々なことがあったでしょうが

七崎観音は

とても長い間

歴代先師はもちろんのこと

有縁の方の手により

守り伝えられてまいりました。

 

今回取り上げた史料からは

その一端を垣間見ることが

出来たかと思います。

 

今を生きる者として

歴史をしっかりと受け継ぎ

未来へ繋いでいきたいと思います。

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