古代の祈りの痕跡とお寺の起源

錫杖(しゃくじょう)状鉄製品

といわれる遺物が

当地の上七崎での

遺跡調査(平成6年(1994)実施)で

発掘されております。

 

八戸市の

遺跡台帳番号03268

上七崎遺跡

『新編八戸市史』によると

平安以前のものとされますが

出土遺物は概ね

10世紀後半のものとしております。

 

錫杖(しゃくじょう)は

現在でも修法や儀式で用いられる

法具(ほうぐ)です。

 

同資料によれば

宗教儀礼等に用いられていたと

考えられる錫杖状鉄製品は

北東北を中心に

発見されていたものの

用途は不明だったようで

上七崎遺跡出土の錫杖状鉄製品が

完存品で発見されたことにより

現在用いられている錫杖のように

用いることで音が発せられることが

初めて明らかになったそうです。

 

9世紀頃〜10世紀には

七崎の地において法具が

用いられ祈りが捧げられていた

ことを伝えているといえるでしょう。

 

また当地の滝谷(たきや)地区の

蛇ケ沢(じゃがさわ)遺跡では

9世紀後半から10世紀初頭の

竪穴式住居跡3棟が見つかっており

そこでカマドにまつわる

宗教儀礼があったものと

想定されているそうです。

 

また同遺跡では

鋤(すき)・鍬(くわ)先が

3枚重なった状態で納められており

「当時貴重品であったと思われる

鉄製品をどのような理由で

納めたのか

この集落を考える上で

注目される事例」だそうです。

 

※遺跡関係の記述は

全て『新編八戸市史 』の

考古学資料編と地誌編を

参考にしております。

 

それぞれの遺跡は

古代の祈りの痕跡を伝えます。

 

当山は

開創は圓鏡上人

(延暦弘仁年間(8C下旬〜9C初頭))

開基(開山)は行海上人

(承安元年(1171))

中興開山は快傅上人

(享保年間(1716〜1736))

とされまして

ルーツは平安初期にさかのぼります。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

ついでですが

鎌倉は中世において

密教の一大拠点でした。

 

さらに

鎌倉ついででいえば

鎌倉の長谷寺は

当山本山である

奈良の長谷寺と

深く関わるお寺です。

 

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺

の三学山は鎌倉の密教を

考える上で重要な寺院といえます。

 

二階堂永福寺は

平泉の大長寿院を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

諸説ありますが

“鎌倉三学山”の1つである

二階堂永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また

三戸沖田面村と五戸七崎村を賜ったと

近世の史料は伝えております。

 

この近世の史料とは

『たけたからくり』(文政6年(1823))

という文書でして

幅広く貴重な情報を今に伝えるものです。

 

同史料では

七崎(ならさき)に古くから

観音堂があったことにも

触れております。

 

また観音堂は

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

この行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星または七曜)

の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

現在の七崎神社にそびえる

3本の大杉(樹齢800〜1000年)は

その時のものだといわれ

行海上人の時代の頃と重なります。

 

当地には

時の天皇の怒りに触れ

平安初期に

当地へおいでになられた

藤原諸江(もろえ)卿が

9本の杉を植えたとの伝説もあり

現在の七崎神社の地の

大杉はその時のものという

いわれもあります。

 

当地に見られる

久保杉(くぼすぎ)という名字は

「9本の杉」から来ており

藤原氏の流れをひいていると

伝えられております。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

「移った」という表現は

当てはまらないように思いますし

かなり違和感を覚えます。

 

古い時代の有力寺社は

所領を当地以外にも

持つ場合が多く見られるので

そういったことも

踏まえる必要があるかと思います。

 

永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その縁起が編まれてゆきます。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

奥州「田村の里」七崎に

お寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

同書上巻第5話に収録されており

これが田村将軍創建伝説の

根拠となっているかもしれません。

 

今回とりあげた

『たけたからくり』は

文政6年(1823)に書かれた

近世の史料なので

当時の盛岡における

永福寺縁起がどのように

語られていたのかが

垣間見られるものですし

七崎の地が観音様と

強く結び付けられて

意識されていたであろうことが

よく伝わってまいります。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から

当地に留まるよう

懇願されたため

草庵が結ばれ

普賢院が開基されたと

伝えられます。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」となっているのは

拙僧(副住職)の見解では

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに

由来していると思います。

 

弘仁年間は810〜824年なので

『先師過去帳』に記される

開創上人の没年を踏まえて

「弘仁初期頃」としているのだと

考えられます。

 

開創や開基の時代には

当地において

「祈り」が捧げられていた

可能性が高いことを伝える

上七崎遺跡と蛇ケ沢遺跡。

 

他の遺跡でいえば

夏間木地区の遺跡は

浅水川流域の数少ない

奈良時代の集落であることが

確認されておりますし

喉平(のどひら)遺跡には

縄文時代後期の小規模集落が

あったと見られており

当地にはその時代には

集落があったことが伺えますし

祭祀に用いられたと見られる

土偶も出土しております。

 

当山草創期に思いをはせるにあたり

当地の各遺跡が伝えることに

耳をしっかりと傾けたいと思います。

 

【関連記事】

▼南祖坊伝説の諸相⑤

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑤%E3%80%80長谷寺と南祖坊%E3%80%80その参/

 

▼錫杖状鉄製品

(『新編八戸市史 地誌編』p.576。)

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