南祖坊伝説の諸相④ 長谷寺と南祖坊 その弐

前回の「南祖坊伝説の諸相③」では

紀行家である菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』(1788年)

『十曲湖(とわだのうみ)』(1807年)

という著作に触れられる

南祖坊伝説の明らかな変化として

南祖坊と長谷寺が

関係づけられていることを見ました。

 

※前回はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相③/

 

南祖坊と長谷寺が

関係づけられることは

永福寺が小池坊の末寺

つまり奈良県桜井市の

長谷寺の末寺であることと

深く関わるといえるでしょう。

 

伝説や伝承というものは

常に固定的なものではなく

時に見直され

時に教相(教学)や事相(法流や作法)

によって深められ

そして発信され

受容されるものかと思います。

 

江戸時代は

全国のお寺の本末関係が

確立されていく時代であり

その本末関係は全国各地の

人民統制など行政においても

意味を持つものでした。

 

盛岡城の鬼門に

改められた永福寺は

盛岡南部藩筆頭の寺院であり

祈願寺という立場であるのに加え

田舎本寺(いなかほんじ)という

お寺を統括する立場にもあったお寺です。

 

さらには檀林(だんりん)という

僧侶の大学のような場所でもありました。

 

広大な南部藩領における

以上のような

永福寺の様々な役割は

南祖坊伝説のあり方に

影響を与えている部分が

あろうことは容易に想像できます。

 

当山のある豊崎町(かつての七崎)は

永福寺発祥の地ですが

盛岡に永福寺が建立された後も

三戸の嶺松院(れいしょういん)と共に

支配や末寺扱いではなく

「旧地」「自坊」として

区別されて維持されました。

 

これは当山が

南祖坊が修行したとの

伝承があることと

関係があるように思います。

 

話が大分それましたが

長谷寺との関係に

話を戻します。

 

長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といいます。

 

長谷寺は始め東大寺の末寺で

正暦元年(990年)に

興福寺の末寺となります。

 

興福寺は藤原氏の氏神の

春日大社の別当でもあります。

 

長谷寺の本尊は十一面観音で

その脇士として

本尊に向かって右側に

難陀龍王(なんだりゅうおう)が

お祀りされますが

これは春日大明神の化身とされます。

 

藤原氏の関係でいえば

長谷寺の十一面観音造立には

藤原房前が関係しております。

 

ちなみにですが

南祖坊も藤原氏とされます。

 

長谷寺も荒廃した時期があり

それを再興したのが

根来寺の学頭であった

専誉(せんよ)僧正です。

 

専誉僧正は豊臣秀長に招かれ

天正15年(1587年)に長谷寺に

入られます。

 

専誉僧正の住坊を

小池坊中性院といいます。

 

専誉僧正入山以後

長谷寺は新義真言宗の

根本道場となります。

 

徳川時代には厚い庇護を受け

本堂や大講堂や登廊が

再建されます。

 

また専誉僧正が入山以来

“学山”としての性格が明確化され

“長谷学”の名は一世を風靡したそうです。

 

長谷寺は現在でも

真言宗豊山派の総本山で

当山の本山です。

 

江戸期には長谷寺は

様々な宗派の僧侶が集まり

1000人もの修行僧がいたそうです。

 

新義真言宗の

根本道場であることに加え

学山としても

長谷寺が隆盛したのです。

 

長谷寺は古くから

十一面観音の霊験で

有名なお山です。

 

当山の前身である

七崎永福寺の本尊は

十一面観音とされます。

 

盛岡の永福寺は修法本尊として

歓喜天(聖天)がお祀りされますが

内々陣にはその本地として

十一面観音がお祀りされます。

 

最古の十和田湖伝説が収録される

『三国伝記』という書物は

インドと中国と日本の

三者が観音法楽(かんのんほうらく)

つまり観音菩薩に捧げるべく

1人ずつ持ち回りで

お話をするという設定で

その話の中の一話が

最古の十和田湖伝説とされます。

 

『三国伝記』という書物は

長谷寺の影響が指摘されており

この点はとても重要かと思います。

 

十一面観音と南祖坊伝説との関係は

これまで述べられたことが

なかった視点なので

仏道の視点とあわせて

今後も深めていきたいと思います。

 

以上

関連する事柄を

あまり整理することなしに

記してきました。

 

詳細に記すと

膨大になってしまうので

大雑把に紹介させて頂きました。

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